最後の親鸞以後

講演「『最後の親鸞』以後」 を聴く。

吉本隆明さんの「『最後の親鸞』以後」という
講演のことを知ったのはねぇ、
さくねんの10月28日、糸井重里さんが、
ほぼ日の「今日のダーリン」の中で、、、

(前略)
そして、『A040 最後の親鸞以後』というタイトルの
講演のテキストを読み進めていたのですが、
思っていたことばは発見できませんでした。
が、過去にこの講演を聴いたときの何倍もの深度で、
いまのじぶんのこころに届いてきたのでした。
お恥ずかしいけれど、夜中に泣き出すくらい沁みました。
(平成30年10月28日、糸井重里さん「今日のダーリン」より。)

‥‥とのように書かれておられて。

ぼくは、このじぶんのnoteのなかで
「吉本隆明さんの講演を聴くシリーズ」とゆうのを不定期で、、
とは言っても、あまりに不定期過ぎるけれども。
ですから、このまえ吉本さんの講演のことを記したのもね、
もういつか憶えていないんですが。
以前聴いたその講演のあとでは、
糸井さんおっしゃるこの「最後の親鸞以後」を
聴こう聴こうと思いながらけっこう時間経ってしまって。

いつごろでしたか、ようやく聴けたのですが。

聴いてみると、ぼくにはなかなか内容がむつかしくて。
つまり、むつかしくってぇ、よくわからないー、
と申しあげますか。
そう感じながら、講演の後半へとさしかかりまして。
そして、聴き進めてゆきますと、
うわぁ〜!!! って想った場面があったのよね。

それは、この講演の「チャプター10」、
【<善悪>の問題 ─ <宿業>という考え方】での、、

「人間が意志してできることなんてのは、
 たいしたことじゃない。」

‥‥と、吉本さんおっしゃる箇所からの場面です。

そこのところ、でも、ひとことでまとめられる感じでも
無さそうなので。また、やってみようかなぁー、
ここのところだけのピンポイントで、
吉本さんの講演をゆっくりじっくり聴く。。。
つまり、どういうものかと申しあげますと、
講演を聴きながら、吉本さんおっしゃる講演のことばを、
すこしずつ「聴き書き」してゆく。という。

こんかいは、ここからここまで、と、
ピンポイントでやってまいりますが。
それでもnoteの数回はかかるとぞんじますので、
もしも、ご興味あればお越しください〜。

スタートは次回noteから、だよっ!!!!!

たくさんの「わからない」ことと出合ったとしても、
すこしでも「わかる」ところがあれば
その「わかる」から始めればよい、と思う。

令和元年6月8日


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