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講演『「かっこいい」ということ』(中編)

前回noteからひきつづきまして、
吉本隆明さんの講演
『「かっこいい」ということ ─岡田有希子の死をめぐって』
を聴きながら、ぼくが思ったことを記します。

つづけて、吉本さんは、
「かっこいい」とは何か? と問われます。

このときに、文芸批評の観点より、
この講演が開催されました1986年当時の文学作品の中で、
村上春樹さんの『パン屋再襲撃』と、
村上龍さんの『POST』を挙げられて。
このふたつの作品は、かっこいいんじゃあねえか。と。
また、かっこわるい作品もありました、
とおっしゃいながら、
遠藤周作さんの『スキャンダル』という作品は、
かっこわるいと思ったんですよ。と、
お客さんの笑いも交えつつ言われる場面は、
なんだか、微笑ましい感じがしました。

文学作品において、
「かっこいい作品」と「かっこわるい作品」が、
ある、ということ。

これを仮に、岡田有希子さんの自死より、
若者の後追い自殺が相次いで
社会問題となったことまでを含めて、
これは「実際に起こった出来事」ではあるけれども、
たとえば、
「現在の社会」というものを「作者」として
「岡田有希子」という人を「主人公」とした
ひとつの「文学作品」として置き直すことができる。

つまり、
「現在」という作者が、この事件を
「描いた」と見ることができる。とのことで。

そうして、ではあるとしても、
この岡田有希子さんの事件や現象について、
これをひとつの文学作品として読んだ場合に、
その作品が「かっこいい」のかどうか?
を考えることは、とっても難しいことだ。
と、吉本さんはおっしゃいます。

たとえば、この事件に関して、
共感をしたり、反感を持ったり、はたまた、
相当大きな価値があると思ったり、
否定的な価値観を与えていたり、
というような何かしらの意見を持つ、みたいな、
「いい作品かどうか?」という価値観の問題ならば、
述べるのはそんなに難しくない、としても、
「かっこいいかどうか?」という問題を考えるには、
とっても難しいような気がします。と。

それは、そんな簡単に
「かっこいいかどうか?」
を、言ってはいけない部分を含んでいる。

だからこそ、
大変難しい問題だからこそ、結論は設けないで、
ちょっと考えてみる必要があるぜ。と。
もしも、そのように「考える」ことができるならば、
この作者である「現在」というものの意に背いて、
行動することができる。
っていうふうに考えられる。

それは、なんだか、
早急な結論づけはしないで考える、ということは、
素敵だなあと感じますし。
また、この問題のことを考えるのは、
ぼく自身としてもね、聴きながら、
大事なことであるように感じられたの。

このとき、吉本隆明さんは、
「離脱」ということが大きな問題になってきた。
と言っておられますが。
このつづきはまた、次回noteで記します。

令和2年4月9日


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