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沈黙のことばが育てることば。

2008年(平成20年)7月19日、ぼくは
東京の「昭和女子大学人見記念講堂」の会場にて、
吉本隆明さんの講演会『芸術言語論』を聴いておりました。

この講演は、その後、
テレビの特番として放送されたり、そして、
その番組がDVDで発売されたり、また、
講演会を主催なされた「ほぼ日刊イトイ新聞」でも
講演の解説のようなコンテンツを読んだり、
というなかでね、ぼく自身も、この講演のなかで
吉本さんはどのようなことをお話しなさっていたのか、
というのは、たびたび、考えておりまして。
この講演会のお話しで、ぼくがとくに
印象的に感じられたことばというのが、
「沈黙」です。

この「沈黙」のことは、今もなお
折に触れて考えてはいるんだけれども、
そのほんとうのところはさ、
まだ、よくわかっていないの。

たとえば、吉本さんのおっしゃるには、
「ことば」というものは
「指示表出」と「自己表出」という
二つの言語に分けられる、とおっしゃいます。
前者の「指示表出」とは、
コミュニケーション用としての言語、つまり、
樹木にたとえるならば、
枝から、お花が咲いたり、実をつけたり、
もしくは、葉っぱが風に揺られたり、
というそれは、季節ごとに
変わったり、落ちたり、実ったりすることば。
そしてまた、後者の「自己表出」とは、
じぶんがじぶんへと問いかけるような言語、つまり、
同じく樹木でたとえるとすれば、
幹や根の部分にあたることば。
この「指示表出」と「自己表出」という二つが
縦糸と横糸となって織り合わせて出来たものが、
「ことば」である。そして、
「ことば」における「沈黙」とは、
吉本さんの言われる「自己表出」、
つまり、樹木の幹や根にあたる
じぶんだけの独り言のような内緒の話、及び、
コミュニケーションとして使われないことば、
とのように、吉本さんはおっしゃいます。

「沈黙」と言えば、たとえば、
「沈黙は金」や「言わぬが花」のごとく、
黙ることに価値がある、的な考えもあるとも存じますが。
ぼくは、吉本さんのおっしゃる「沈黙」とは
そういう「沈黙は金」や「言わぬが花」のような、
沈黙の価値、みたいなことを
言われているわけではない、と、思っている。

今のぼくなりにね、この
「沈黙」のことを考えてみれば、
コミュニケーションとして使われる「指示表出」のことば、
つまり、樹木で言うならば
お花や果実のようなことばとは、
じぶんでじぶんへと問いかけるかのような
幹や根にあたる部分から、出てくる。
この幹や根の部分が、つまり
言語における「沈黙」であり、
この沈黙の部分を、
蔑ろのようにしてはいけない。
ということでしょうか。

黙ること、そして、
黙っているときには、
ことばは発せられていないけれども、
でも、その奥のほうでは、誰しもが
想いや考えや気持ちを持っている。
その想いみたいなことを、もしも
言語化されていなかったとしても、
「ない」とは決めつけられない。
また、必ずしも、そのすべてを
言語化させる必要性もない。

そういうような「自己表出」、つまり、
「幹」や「根」に近いような
じぶんのなかだけの沈黙のことばが、
コミュニケーション用の「指示表出」のことばをね、
つまり、たとえて言えば、
「お花」や「果実」の部分を、
育てる、とも言えるのかなあ?

吉本隆明さんのおっしゃった
「沈黙」のことについて、今のぼくとしては
こういうふうなことを考えているのよね。

それにしてもぉー、あのときの講演会から
今年の今月で15年が経つんだなあ〜。
これからも、この『芸術言語論』でのことはね、
吉本さんはこういうことをお話しされていたのかなあ?
って、折に触れて、考えてゆけたいです。

令和5年7月5日

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