最後の親鸞以後

不可避。

前回noteのつづきです。)

とうとつにこのシリーズ始めてしまいましたが。
ほんじつも、やってゆくです。
ほぼ日刊イトイ新聞「吉本隆明の183講演」より、
吉本隆明さんの「A040 『最後の親鸞』以後」の講演音源を
すこしずつ聴きながらことばを文字にしてゆきながら、
ぼくが吉本さんの講演をゆっくりじっくり聴いてゆく。
というシリーズです。

以前のnoteでも数度やりましたが、こんかいは、
ある場面だけをピンポイントで聴きます〜。

前回では、
「本当を言えば、その人の意志で以って
出来る善悪なんて絶対に無いんだよ。
毛の先ほどの善であり悪であり、全部、それは宿業なんだよ。」
と吉本さんおっしゃるところでした。

つづきです。。。

だから、もう言うまでもなく、もちろん、だから人間が意志して、あの。できる善悪なんて全く無いんだよ。って。そんな…、そんなことなんて絶対出来やしないんだ、って言うふうな言い方をしてるわけです。
【チャプター10「 <善悪>の問題 ─ <宿業>という考え方」2:50~】

「人間が意志してできる善悪なんて、まったくないんだ。という言いかたをしています。」

‥‥と言われるこのことは、
前回聞きました箇所より以前の部分でおっしゃっていた
親鸞聖人の「歎異抄」において、ですね。

で、このことは、これ…。このこと、僕なりのね、僕なりのその言い方で、その、すこし解説しますとね。

「このことを、ぼくなりの言いかたで解説しますと、」

吉本さんのご解説では、、、

あの、ね。あの、僕もね、割りに好きなんですよ。つまり、あの、人間が意志して…。あの、人間が意志して出来ることなんてのは、大したことじゃない。っていう考え方ってのはね、ぼくはね、ものすごく好きなんです。

「人間が意志してできることなんてのは、たいしたことじゃあない。という考えかたは、ものすごくすきなんです。」

ものすごく、すき。ってゆうのは、
なんだか、よいなあー。。。

あの、僕の考え方の根本…、あの、の中にもあるんです。あの、人間なんかね、人間の行為のうちでね、行いのうちでね。意志して出来ることなんてのはね、大したことないよ。っていうのはね、もうね、僕の考え方の中にもあるんです。

「人間のおこないのうちで、意志してできることなんて、たいしたことないよ。というのは、ぼくの考えかたの根本にもあるんです。」

吉本さんの考えの根本。。。

あの、それで、僕は信仰者じゃないから。決して、あの、宿業だ、って言うふうに、親鸞のように言いませんけどね。不可避だ、って言う言い方をするんですけどね。

「ぼくは信仰者ではないから、親鸞のように『宿業だ。』とはけっして言いませんけど、『不可避だ。』」という言いかたをします。」

不可避。

と、そして、
「ぼくは信仰者じゃないから決して親鸞のようには言いませんけど」
と吉本さんおっしゃることばには、
なんだか、宗教への敬意のように感じられる。。。

ではでは、このつづきはまた次回noteで聴きまする。
ここからの場面がさ、ほんとうに、
素敵だなあと想ったところなんです〜。

令和元年6月10日


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