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なぜ、その字が選ばれたんだろう?

【矛盾】ということばは、
辻褄の合わないという意味の故事成語として、
どんな盾もつらぬく矛と
どんな矛もふせげる盾を売る男に対して、客から
ならば、その矛でその盾を突けばどうなるか?
と訊ねられたことにより、
「矛」と「盾」の字が選ばれて熟語となった。
【推敲】ということばは、
記した文章を十分に吟味して練り直すという意味として、
ある人が詩を作っていた際、その中の語句として
す」か「たたく」かで迷ってしまった、
というエピソードより、
「推」と「敲」の字が選ばれて熟語になった。
ともすれば、ならば、
【馬鹿】ということばは、なぜ
「馬」と「鹿」の字が選ばれたんだろう?

って思ってネット検索してみるとね、そこには
たくさんの諸説があるとのことなのですが、
ぼくが好きなのは、たとえば、その動物を見て
「馬」と「鹿」の区別もつかない人、
というのは、なんだか
かなり説得力があるなあ、って、つまり、
物事の判別や分別のできない人のことを
「馬鹿」と呼ぶのやもしらない。

同じような意味として、非常に
きたないことばで言うとすると、
「ミソ」と「クソ」の区別もつかない、
という言い方もあるとはぞんじますが。
つまりはさ、大事なことは
「区別」なのだと考えられるやもしれない。
しかし、「区別」とは
とてもむつかしいことだとも思える。
つまり、たとえば、人間を
「区別」することによっては、
「差別」が生まれる場合がある。

「区別」は大事なのだとしても、
「差別」はよくない、と、
ぼくも思うけれども、ならば、
「区別」と「差別」のちがいって、
どこにあるんだろう? って考えてみても、
ぼくはよくわからない。そんなぼくは、
ミソもクソも判別できないような、
馬鹿者なのだとも思える。

ぼくは、じつは
「尊敬」ということばが得意ではない。
いや、得意ではない、と言うよりかは
苦手だったりする。
どうして苦手なのかと申しますと、
ある人を「尊敬する」のは素晴らしい、そして、
ある人を「尊敬できない」ということも
あるとも思うですが、そういうような
「尊敬できない」と言うときには、
尊敬できないその人を下に見て蔑むかのごとく、
差別が発生することがある。つまり、
尊敬という概念は、他人を
尊敬できるかできないかに区別して、
尊敬できないほうに置くとなれば、
なにをしてもゆるされる、というふうにもなりうる。

だからぼくはもういっそのこと、他人を
「尊敬」しないようにならなければ、
と思うようになった。
でも、その、他人を尊敬しないということは
だれもかれも馬鹿にする、という意味じゃあない。
そうじゃあなくって、なんと申しますか、
他人に対して「敬意」を持つこと。
つまり、仮に、その人を
「尊敬」できなくとも、その人に対して
「敬意」を持つことはできる、
って、そういうふうに考えれば、そこには
「差別」も発生しないのではないか? と思ったの。

【尊敬】という語句って、
「尊」も「敬」もどちらも「うやまう」の意で、
それがふたつならぶことによって
あまりにもつよい語句になっていると思える。
ともすれば、ぼくとしては
【敬意】とは、
「うやまう」の意であることばがひとつだけで、
ちょうどよい! というか、なんというか。。。

このこと書きながら、でも、ちょっと
ちゃんと言えてない気もするし、論理も
矛盾しているような気もするけれど、
今のとこはそんなふうに思っているの。

令和6年4月30日


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