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鈴木秀之のノート。

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(令和3年3月14日〜)
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2022年2月の記事一覧

ビー、オールライト。

ビー、オールライト。

なんだか無性に、
ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの
『No Woman, No Cry』を聴きたくなって、
昨日、Spotifyで聴いていた。

ぼくは、でも、
ボブ・マーリーのこと、そして、
レゲエのこと、ジャマイカのことについて、
知識として何も存じないけれど、でも、
『No Woman, No Cry』を聴くと、
なんだか、気持ちが落ちついてくる。

そして今、さっき、YouTubeでね、

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until we meet again 生きなければ

until we meet again 生きなければ

昨日は、くるりの配信ライブ
「くるり結成25周年記念公演『くるりの25回転』」
観ましたー。
なんとゆうか、この今、
観ることができて、ありがたかったー。

25周年記念のライブとして、セットリストが
これまでの各アルバムから2曲ずつ選曲されていて。
本編25曲、および、アンコール2曲、という、
いろいろな曲、歌、演奏が聴けて、
すばらしかったなあ。

そのなかでもね、ぼくとしては、
『every

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反面教師。

反面教師。

以前、じぶん自身に対して、あまりにも
絶望のように思ってしまったときにはさ、
(いっそ、世界中のすべての人が、
ぼくのことを反面教師にすれば、
世界は平和に成るだろうに。)
と思って、それで、そう思えたことで、
逆に、ちょっと自己肯定できた、というか、
その絶望の感覚から、どことなく
抜け出せたように感じられたことがある。

そして、でも、この
(ぼくを反面教師にすれば、
世界は平和に成るだろうに

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無題。(令和4年2月25日の独り言)

無題。(令和4年2月25日の独り言)

「正義」というのは、
とっても大事なことだとは思うけれど、
なんだか、ちょっとこわいなあ、
と思うこともある。

たとえば、
「正義」は
「悪者」をやっつける。
なのだとして、
「正義」とは、
「正しい」からこそ、その
「悪者」を「やっつける」ときのふるまいとは、
たとえどんな手段を使おうとも、
すべて「正しい」ものである。
と、思うようになる。

つまりはさ、
「正義」の「正しさ」を、
信じて、

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思考の迷路の闇の中。

思考の迷路の闇の中。

すぐに頭の中で考え込んでしまうぼくは、
「考える」という行為が、
ちゃんとできているかどうか、ってえのは、
じぶん自身の死活問題であるとも言える。

「考える」が、
ちゃんとできていない、ってゆうことは、
思考の迷路の闇の中で、
迷い込むことを、意味する。
そのようにならないためにも、
すぐに頭の中で考え込んでしまうようなぼくは、
「考える」とは、何か?
を考えることによって、じぶん自身が
「考え

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ほんとうの考えが分かれば。

ほんとうの考えが分かれば。

「考える」とはどういうことか?
ってゆうのは、けっこう、
じぶんの中で考える。

けれど、いまだに、
「考える」について、
じぶんなりの考えは持てていない。

「考える」について考えるときにね、
ぼくがよくイメージするのが、
吉本隆明さんのおっしゃっていた
「ほんとうの考えと嘘の考え」
のことばのことなのでして。

このことばについて、
以前、ほぼ日刊イトイ新聞にて、
吉本さんと糸井重里さんとの対

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複雑なことを解釈するための練習として。

複雑なことを解釈するための練習として。

数か月前、パートで勤めている学習塾にて、
とある中学生の生徒さんが、
数学の問題を解いているときに
「こんな問題解いて、将来の何の役にたつの?」
と訊ねてきた。

こういう質問って、
たびたび訊かれながら、その都度、
ぼくはなかなかうまく答えられていないんですが。
このときはさ、
父が亡くなってから数か月が経ち、父に関する
もろもろの手続きのことをしていたころで、
そのことをずっと考えていたので、

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「学ぶ」とは何か?(『素敵じゃないか』ver.)

「学ぶ」とは何か?(『素敵じゃないか』ver.)

ぼくがこのじぶんのブログのなかで、
「学びたい」とか言ってみても、
「学ぶ」とは何か? について、
じつはあんまりわかっていない。

「学ぶ」って、たとえば、
テキストや参考書で記されている
語句や知識を覚える、
だけにとどまらない、とは思っている。
けれど、それ以上は、
どういうことがあるのか?
ってゆうのは、うまく言えないの。

「頭が良い」という言い方もあるけれど、
たとえば、テキストの知識

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大学の「図書館」の隠し部屋。

大学の「図書館」の隠し部屋。

このごろはさ、先日読み終えました
内田樹さん著『複雑化の教育論』を読みながら、
教育のこと、そして、ぼく自身の
大学生のときのことを考えていた。

『複雑化の教育論』の冒頭では、「学びの場」として、
大学の「校舎」のことが書かれていて。
内田さんが勤めておられた神戸女学院の校舎は、
ウィリアム・メレル・ヴォーリズという建築家の設計で、
この校舎とは、配慮と、居心地のよさと、
ミステリアスさが兼ね備

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毎日とは。

毎日とは。

大学生のとき、卒業研究を指導してくださった
研究室の先生(林先生)が、
卒業間際、これから働き始めるぼくらに対して、
「社会人になったら毎日が定期テストだから。」
とおっしゃった。

この先生のことばのことを、
卒業から18年くらい経つけれど、
いまだに、たまに考えるのよね。

当時、先生から、
「社会人になったら、毎日が定期テストだから。」
と言われたときには、ぼくは、たしか、
「えー、やだー!

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「卒業論文」と「後輩」について。

「卒業論文」と「後輩」について。

前回noteでは、大学生のころのぼくは、
ダメ学生ではあったけれど、それでも、
全く何も学んでいなかった、
というわけでもなかった。
みたいなことを書いたのですが。
かと言っても、それでもやっぱり、
じぶんはいろいろダメ学生で、
そのなかでも、いちばんダメだった、と、
今でも思い出すと、申し訳ないと思うことがある。

それは、卒業研究のことでして。

卒業研究ではさ、昨日も書いたのですが、
先生の

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お豆富と失敗と工夫について。

お豆富と失敗と工夫について。

先日のブログでは、
大学生のころのぼくは、勉強もせず、
だらだら過ごしていたようなダメ学生だった、
というのを書いたけれど。
とは言ってみても、当時4年間の大学生活の中で、
まったく何も学んでいなかったか、というのは、
そうではなかった。って思っている。

たとえば、
建築学科だったぼくは、1年生のころかな、
「建築構造」の授業のときに、
先生のおっしゃっていた
「人間は、豆富のようにやわらかい。

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思い出す力。

思い出す力。

ふとしたときにね、
以前に読んだ本のこととか、
昔教えてもらったこととか、
いつかの思い出のこととか、
を、思い出したりすると、
なんだか、うれしくなる。

そのときまでは忘れていたことを、
ふと、思い出す。ってゆうのは、
けっこう不思議だ。

そういうような「思い出」とは、たとえば、
学校の勉強として覚える、
というのともちがうんだから、
じぶんから能動的に記憶しようとせずに、
脳のどこかへ入り

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「何をもって憶えられたいか」と「受動態」のこと。

「何をもって憶えられたいか」と「受動態」のこと。

さくじつのブログでは、
「何になりたいか」的なことを、
あらためて考えていたら、ふと、ドラッカーの
「何をもって憶えられたいか」
ということばを思い出したことを記しました。

「何をもって憶えられたいか」
ということばとは、
ドラッカー著『非営利組織の経営』や、そして、
上田惇生さん著『ドラッカー入門』等でも、
書かれているとぞんじますが。
『非営利組織の経営』より引用を申しあげますと、、

‥‥

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