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鈴木秀之のノート。

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(令和3年3月14日〜)
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2021年8月の記事一覧

「浅める」のこと。

「浅める」のこと。

いつごろでしたか、糸井重里さんが、
「浅める」ということを書いておられて。
つまりは、物事を、
「深める」のではなくって、
「浅める」のは、どうだろうか。と。

ふつう、「深い」ことは、
よいことだ、みたいな風潮があって。
たとえば「感慨深い」とか「味わい深い」とか、
「これ、ふかいわー!」とか、って、
ぼくも思ったりもするけれども。
「深い」ことが、よいことなのかどうか、
ってゆうのもさ、よくわ

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螺旋階段の階層から。

螺旋階段の階層から。

ぼくのブログでは、主に、ぼくの
興味のあることや考えたことを書いている。
とは言っても、ぼくの思う
興味のあることや考えることってゆうのも、
そんなにひろい範囲のことでもないから、
同じような内容を、何度も、何度も、何度も、
ブログに書くことも、多々、ある。

同じ内容を何度も書く、ってえのもさ、
以前に書いたと思いながら書く場合もあれば、
以前に書いたとも思わずに書く場合もあるけど、
それは以前

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一文字の分岐点。

一文字の分岐点。

さくじつのブログでは、ぼくのブログとは、
「前日のブログ」と「翌日のブログ」が
連想ゲームのように、連なっていることが多い。
みたいなことを書いたですが。

ともすれば、つまりはさ、
前日に書いたことが、
今日へ影響するし。
今日に書いたことが、
明日へ影響するし。
明日に書いたことが、
明後日へ影響する。
って言えるんかもしれないか。

そして、その、毎回のブログだってもね、
文章として書いてゆ

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REMとシャングリラ。

REMとシャングリラ。

ぼくのブログは、たいていの場合、
その日のブログを書き終えてから、
あしたは何を書こう? って考えながら、
翌日をむかえて、前日に考えたことを、
ブログで書く。みたいな、ブログだ。

なんだか、まいにち、まいにち、
「あしたのブログは何を書こう?」
って考えているようだ。

ぼくのブログでは、たとえば、
「前回noteでは、」や「さくじつのブログでは、」って
書くことが多いように、前日の内容から

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文章とパンくず。

文章とパンくず。

ブログを書くときには、たいていの場合、
こういうことを書こうかなあ? ってゆうのは、
なんとなく事前に考えてあって、
考えてあったそのことを、毎回、書き始める。

でも、事前に考えてあった
「そのこと」というのはさ、
なんとなくのだいたいな感じなので、
ブログの文章にしようとすると、
ブログを書いているあいだに、
ことばとことばとがうまくつながらない、とか、
ここはもうちょっとくわしく書かないと、

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文章と体調。

文章と体調。

ぼくは、このブログを、
まいにち書いているですが。
まいにちブログを書いているなかでは、
体調があんまりよくない日、ってゆう日も、
やっぱりあって。そういう日はさ、
ブログを書くのも、なんだか、たいへんだ。

ブログを書く、というのは、
こうしてコンピューターの画面にむかいながら、
椅子にすわって、キーボードを打つ、みたいな、
体の姿勢的には楽なふうではあるけれども、
とくに運動している感じでもな

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考えるも、休むも、悩むも、ぼーっとするも。

考えるも、休むも、悩むも、ぼーっとするも。

「下手の長考、休むに似たり」ということばを、
聞いたことがあるけれども。
考えているときも、休んでいるときも、
悩んでいるときも、ぼーっとしているときも、
はたから見れば、その姿は、
おんなじようなものかもしれないな。

そんなような、
考えるも、休むも、悩むも、ぼーっとするも、
頭の中では、なにかしら、思っていて。
その、なにかしらを思いながらの、
考えたさきには、休んださきには、
悩んださきに

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過去形の「考える」、現在進行形の「悩む」。

過去形の「考える」、現在進行形の「悩む」。

考えても、考えても、考えても
わからないとき、ってゆうのは、
それは、考えることをしていなくて、
ただ、単に、
悩んでるだけなのかもしらない。

ともすれば、
「悩む」から「考える」へと、みたいにして、
じぶんの考える方法を変えてゆけたら、
これまでどんなにわからなかったことでも、
たちまち、わかるようになるんだろうか。

でも、そんなような、
「たちまち」とは言ってもさ、
どれだけの時間や労力が

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初めて考えること。

初めて考えること。

物事を、ちゃんと、きちんと、
考えるってむつかしい。

とくに、その物事がさ、
じぶん自身のなかの
「初めて考えること」だったとすれば、
ちゃんと、きちんと、考えるのは、
もう不可能に近いとも思える。

たとえば、初めて考えて、
でも、よくわからなくて、
また考えてみようとして、
でも、まだよくわからなくて、
またまた考えようとしたら、ちょっと、
うっすらわかりそうになったとしても、
でも、まだよ

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1995年のJシーンと、じぶんの無知さ。

1995年のJシーンと、じぶんの無知さ。

このごろは、
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さんが
ゲスト出演されたのをきっかけで知りました、
三原勇希さん×田中宗一郎さんがホストをされる
「POP LIFE: The Podcast」というポッドキャスト番組をね、
すこしずつ、聴いているのですが。

4月23日公開の「第157回&第158回」では、
「1995年の音楽」についてお話しされていて。

1995年と言

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引き継がれるようにして。

引き継がれるようにして。

先日のブログでも申しました、
2014年発行の内田樹さん著『街場の戦争論』では、
司馬遼太郎さんが「ノモンハン事件」について
小説を書こうとして、ついには書くことはかなわなかった。
とのように記されていて。あらためて、
内田さんのおっしゃるこの部分を読みながら、
ぼくは、また、あらためて、
村上春樹さんの小説『ねじまき鳥クロニクル』での
「ノモンハン事件」の描写のことを思い出していた。

そう言わ

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朝から、朝まで。

朝から、朝まで。

先日読み終えました、燃え殻さんの小説
『これはただの夏』では、
【イントロを聴いただけで、
 いつかの夏に連れもどされる曲はありますか?】
という章があるですが。この章を読みながら、ぼくの中の
「いつかの夏に連れもどされる曲」についても、
考えてみながら、考えながら頭の中で鳴っていたのは、
KICK THE CAN CREWの『イツナロウバ』だった。

大学の夏休み、
地元へと帰ってきて、たしか、

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自明の所与。

自明の所与。

太平洋戦争の敗戦によって、この今の生活が、
どのように影響されているのか?
というのは、もう、今となっては、
ぜんぜん、わからない。

1982年に生まれたぼくは、
いつごろ戦争のことを知ったかは、
さだかではないけれども、
戦争が、かつて、この地で起きていたことを
知らされるまで、聞かされるまで、
戦争があったことに、
まったく気がつかなかったぐらい、
戦争の時代は遠くなっていた。

でもそれは

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夏に願うこと。

夏に願うこと。

燃え殻さんの小説
『これはただの夏』、読了。

このごろ、なんか、ちょっと、けっこう、
じぶんの考えることとか、
思うこととか、感覚とか、
あまりにもシリアスなふうだったので、
小説を読みながら、どこか、
息を吸えるような感じになれて、
ありがたかった。

この物語で描かれているような、
夏という季節での出合いや、
そこで交わされる会話のようなことが、
日本中でも、世界中でも、どこでも、
たとえど

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