鈴木秀之

なまえはひでしと読みます。好きなことや考えたことや興味のあることを、じぶんのノートへ記…

鈴木秀之

なまえはひでしと読みます。好きなことや考えたことや興味のあることを、じぶんのノートへ記すみたいにnoteを書いています。/愛知県豊橋市/Desmond has a barrow in the market place Molly is the singer in a band

マガジン

  • 鈴木秀之のノート。

    (令和3年3月14日〜)

  • リッシンベン調査団はゆく。

    広い広い「漢字」の世界を、じぶんなりに調査・探索してみたいの。

  • 吉本隆明さんの講演を聴いてみたい〜。

    ほぼ日刊イトイ新聞「吉本隆明の183講演」より、吉本隆明さんの講演を聴きながら思った感想を書いてみるシリーズ。

  • 38歳のノート。(了)

  • 37歳のノート。(了)

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かろうじて書けそうなこと。

日々、ブログで何を書くのか? ってのは、 いつもなやみどころではあるけれども、 ぼくは、noteの自己紹介欄でも記しているですが、 じぶんの好きなことや、考えたことや、 興味のあることを中心に書いているの。 そういうときにね、でも、 好きなことや考えたことや興味のあることを、 まるごと、ぜんぶ、書いているわけでもない。 たとえば、 「好きなこと」とは言っても、 なんとゆうか、つまり、ちょっと フェチ的なことは書きがたいし、そして、 「考えたこと」とは言っても、 考え中にも

    • 生活上のデフォルトのように。

      じぶん自身と誰か、及び、 誰かと誰かとを比べることは、結局のところ じぶん自身、もしくは、その誰かを 「蔑む」ことになるから、 他人と比べてもしょうがない、って言うよりかは 他人と比べるのは良くない、 とも言えるのかもしれない。 って、前回noteでは申しあげまして。 そうとは言えども、やはり、ぼくだっても 人と人とを比べてしまうとも思うけれども。 人と人とを比べることで考えるとすると、 その原初的なことで言うならば、それは 学校の試験の「順位」なのやもしらないなあ。 とく

      • 他人と比べてもしょうがない、と言うよりかは。

        ある首長が新規職員の方々へ向けて訓示を話されたとき、 シンクタンク(政策課題を研究する専門機関)とも言える 組織でこれから勤めるあなたたちは、 野菜を売ったり、牛の世話をしたり、モノを作ったり、 ということとはちがって頭脳・知性が高い、 だからこそ勉強してその知性を磨くべきだ、 と言い、このことが職業差別だとして 大きな批判を受け辞職されることになった。 ぼくはこの地方公共団体で住んでいないので、 きちんとしたことは述べられないけれども、 でも、このことばのみを見るとすれば

        • 農業を行うことを覚えた熊たちのこと。

          先日、母とふたりでテレビを見ていて、 ニュースでね、ある街の住宅の敷地内で 熊が出現したという報道を聞きながら、 母は、熊、こわいね、と言った。 それでぼくは、ふと 思いついたことを話したんだった。 その思いついたことは、 人の住む市街地で熊が出現する、というのは、 熊の食べる餌が熊の住む山に 無いことが理由だと聞くけれども、ならば、 熊が農業をしたらよいじゃん、と。 つまり、熊は主には どんぐりや果実などの植物を食べるらしいけど、 それらの植物を、熊自身が 育てて食べたら

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        記事

          「手当て」を行うため、国境を越える。

          先日のブログの中で申しあげました、WEBサイト 「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載されておりました 白川優子さん+糸井重里さんの対談 『「国境なき医師団」は、かっこいいチームなんです。』 を読み知りました白川さんの著書 『紛争地の看護師』をね、先日、読了いたしました。 平成30年に刊行なされましたこの書籍では、 国境なき医師団(MSF)の看護師さんとして、 シリア、イラク、南スーダン、イエメン、そして パレスチナ・ガザ地区へと赴き、 医療活動をなさった記がしるされているのですが。

          「手当て」を行うため、国境を越える。

          まだまだ成し遂げたいこともあったはずで。

          先月、鳥山明さんの逝去の報道を見聞きしたとき、 最初は、もう、なんと申しますか、 信じられない、と申しあげますか、 なにごとが起きたのかまったくよくわからない、 のような気持ちになって、そして、でも、 だんだんと、これまで 鳥山先生の漫画及び作品を鑑賞してきたことの 多大の感謝を想っておりました。 そして、でも、訃報に際するコメントとして、 株式会社バード・スタジオさん及び 株式会社カプセルコーポレーション・トーキョーさんが 【熱心に取り掛かっていた仕事もたくさんあり、 まだ

          まだまだ成し遂げたいこともあったはずで。

          「記す」とはどういうことなのか?

          昨日のブログでは、先日放映されました 「Last Days 坂本龍一 最期の日々」を観ながら、 ぼくが想ったこと、とくに昨日はね、坂本龍一さんの 最晩年の肉声記録としてお話しなされていた 「音楽」と「音」のことを申しあげました。 そのことを想いながら、あらためて 坂本さんのアルバム『12』も聴きました。 この『12』という作品とは、たぶん、 これからもいろいろなとき、つまり ちょっと身体がつかれているような 音楽を聴けないようなときにでも、折に触れて 聴いてゆくようになるやも

          「記す」とはどういうことなのか?

          雨の音とこれ以上生はないっていうような塊。

          先日、NHK総合で放映されました 「Last Days 坂本龍一 最期の日々」を観ました。 番組を観た感想というのは、ことばでは うまくはあらわせられないですが、でも、 なんだか、いろいろなことを 想ったように存じております。 このごろのぼくのブログでは、たびたび 音楽についてしるしていたですが、 そんなある日のブログの中でね、ぼくは 「身体がつかれているときには、  音楽もあんまり聴けないけれども」 と申しあげました。 このことを思い出したのはね、坂本さんの 最晩年の

          雨の音とこれ以上生はないっていうような塊。

          その歌を歌いたいために。

          ぼくのこのブログでは、ある歌の歌詞のことばを 引用したり、もしくは、おまじないのごとく、 じぶんで歌うようにそのことばをしるす、 ということも多いんですが、でも、 歌の歌詞のことばをしるすときには、 歌詞のことばのみを取り上げるようにして、 つまり、歌詞のことばを論文のごとく考えるのは しないようにできたら、と思っている。 歌詞とは、歌詞のことばだけで 独立して存在するわけじゃあないようにも思うし、 その曲のリズムや演奏、歌のメロディー、 歌われる歌手の方の歌声、などなどの

          その歌を歌いたいために。

          数えきれない喜怒哀楽をともにすれば。

          このようなブログをね、 日々、しるしているぼくは、それはつまり つぎのブログでは何をしるそうか? って、 考えつづけているような日々でもあるのですが。 多くの人に読まれたい、という願いを それほど持ってないぼくとしては、 (でも、じつはやっぱりそれもちょっと思うけれども) 日々、しるせそうなことを じぶんなりにしるしているの。 昨日のブログの中では、たとえば このブログをしるすことだっても、 どういうふうに書き始めて、なおかつ、 どういうふうに書き終わるか、というような い

          数えきれない喜怒哀楽をともにすれば。

          なんにもないところから。

          前回noteではね、音楽における 曲の終わり方についてしるしまして。 ならば、終わり方だけでなくって 曲の始まり方のことも考えてみたいなあ、 って思いながら、前回、 曲の終わり方のことでは、ビートルズの 『Hey Jude』『All You Need Is Love』及び 『A Day In The Life』の曲を挙げましたが、 この三曲の始まり方、つまり、 イントロも好きなんだなあ。たとえば、 『Hey Jude』では歌より始まり、 『All You Need Is Lo

          なんにもないところから。

          とっても印象的な終わり方。

          昨日のブログでは、ひとつの曲の長さについて、 その曲がどのタイミングでどのようにして終わるか? というのを考えながら思い出していたのは、 ビートルズの『Hey Jude』という曲の後半で 【ナー ナーナー ナナナナー ナナナナー ヘイジュード】 というメロディーがずっと繰り返される。 でもこのメロディーも、あるとき、 だんだんとフェードアウトされながら、 7分11秒の時間で終了する。 と思うならば、もしかしたら、この時間が もっと短ければ物足りなくって、 もっと長ければお腹い

          とっても印象的な終わり方。

          演奏が終わること。(『ヘイ・ジュード』とセッションと。)

          音は、鳴らせばすぐさま、もしくは 減衰しながら消えてゆき、 音楽もまた、そのような音のごとく いつかは鳴り止むと分かっていても、 それでも、今日を踊り続けたい! そして、音及び音楽が、なぜ 消えてゆき、なおかつ、鳴り止むかと言えば、 時間があるから、なのだというのをね、 前回noteでしるしましたが。 そういうような、 音楽と時間について思うともすれば、 音楽を聴くとき、それらの曲々には 時間がある。つまり、一曲が 3分とか、4分とか、5分とか、7分何十秒とか、 もっと短か

          演奏が終わること。(『ヘイ・ジュード』とセッションと。)

          音楽の儚さと時間があるから。

          ビデオ機やYouTube等では、 テレビ番組及び動画を倍速で再生することができて、 ぼくはこの機能はあんまり使わないのだけれども、 便利ではあるなあと思っている。 速く、なおかつ、たくさんの 情報を視聴することができる。 ぼくの場合では、講義やニュースや テレビのバラエティ番組を録画したときには、 倍速再生をする場合もあるけれど、おそらく なかには、映画やドラマなどなども 倍速で観る方々もおられるのでしょう。 ぼくはそれらをそういうふうには観ないんですが、 たくさんたくさん観

          音楽の儚さと時間があるから。

          音の集まりが連なることによって。

          音楽を聴くのが好きではありながら、でも 音楽について詳しくは存じていないぼくは、 音楽とは何か? というのもよくわからないな。 音楽とは何か? って、 ぼくが考えて思うのはね、音楽とは 楽器や声の音が集まりながら、なおかつ、 その音の集まりが連なっているもの、 というふうには言えるのかなあ? でも、それでもね、 音の集まりが連なることによって、 これほどまでにも、心が躍ったり、 わくわくしたり、しんみりしたり、 泣けてきそうにもなったりするのは、 不思議だなあ! って思える

          音の集まりが連なることによって。

          身体運動と近所を散歩するかのごとく。

          日々、ブログをしるす、ということにおいて そのブログをしるすのがね、たまには じぶんの身体がつかれてたりして、 すこし億劫に感じてしまうときもある。 まあ、なんと申しあげますか、 今日がその日なんだけれども、 たまにはそういうときもある。 ブログをしるしたり、もしくは 文章をしるすことって、 椅子にすわって、机にむかって、 コンピュータのキーボードを打ったり、 ペンを持ち紙に文字を書いたりするだけで、 運動をするわけじゃあないのに、どうして 身体がつかれているようなときには

          身体運動と近所を散歩するかのごとく。