信頼できる知識を得る方法は二つある
「信頼できる知識を得るためには、二つの方法があるんだ」
「信じることと、批判すること」
「世界は批判することばかりしてるけれど」
『先生抜きで書こう』の著者ピーター・エルボーはそう語る。
デカルトは『方法論序説』で、すべてを疑った後に残るものこそが真実だとした。彼が見つけた「すべてを疑った後に残るもの」とは、皮肉にも疑うことだけだった。
これが有名な「我思う、故に我あり」である。
デカルトの世界観は自我を確立させるが、暖かさに欠ける。理性の重要性を説き、近代科学の父と言われる彼の方法論は呪われてもいる。
今日のFBに印象的な投稿があった。夜間中学の新聞記事。
「なんの問題を解いたかより、丁寧に接してもらったことの方が印象に残っている」
もしデカルトが、すべてを信じた後に残るものを探していたら何を探し当てただろう。
いろいろなものに裏切られたはずだ。上の記事の主催者も同じである。甘い考えは痛みを招き、耐えられず発狂して死ぬ羽目になるかもしれない。やはり我らはすべて疑うべきだろうか。
強い自我を作るか、暖かな道を歩むか。
世界中のシャーマンを研究したアーノルド・ミンデルは、「西欧人は前者を説き、シャーマンは後者を取る」と述べる。
ふと、自分を認められた時はいつだろうかと考えることがある。人に優しくできた時だけは、自分を心から認められる。
発狂して死ぬのは、すべてを疑った者の方だろう。
信頼できる知識は優しさに潜む。
信じるべきは自らの優しさが持つ力だ。
ps
ハイデガーは「世界内存在としてのダーザインとは何か」という問題を残しました。
僕はそれは家族だと考えたけれど、ミンデルやエルボーは「暖かな道」だと答えるかもしれない。
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