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暮らす場所


老人ホームと聞けば、まだどこかうしろめたさの残る選択肢、という声があるだろう。
僕は特別養護老人ホームで働いている。そこに入居してくる方たちは、確かにもう在宅生活が限界で、いわゆる「最後の手段」として覚悟を決めてやってくる。いや、正確には大いなる諦めをもって、家族のために入居してくるのだ。

そこではもう自分らしく生活することはできないと思っている人が多い。もちろん様々な制限があり、自宅と同じように、ということは難しいかもしれない。しかし、施設への入居は悪いことばかりではない。

とあるおばあさんは、施設でとても穏やかに暮らしていた。朝昼晩しっかり食べ、たまにレクリエーションで遊び、仲良しのおばあさんとおしゃべりにいそしみ、職員とはいつも冗談を言い合っていた。
新入職員の話し相手兼指導役もお願いしていたが、その饒舌っぷりに、職員たちは驚いていた。
だが、職員はそこからさらに驚くことになる。

おばあさんは在宅生活時、認知症になり、自分がわからなくなっていく不安から、様々な周辺症状がみられた。特にお嫁さんに対しての被害妄想は酷く、毎日壮絶な修羅場となってしまっていた。そして限界を感じた家族は、施設入居を相談したのだった。

そこから今現在のおばあさんに至るまで、半年も経っていなかった。つまり、施設に入居し、おばあさんは安定した生活を取り戻したのだった。

要因はいくつもあるだろう。規則正しい生活によって、身体不調が根本から解決したのか、家族と物理的な距離が離れることにより、妄想に至るまでの関係性の変化がみられなくなったのか。今となっては定かではないが、お嫁さんとの仲はとても良好なものになった。

「今の姿からは想像もつかないです…」

新入職員たちは口を揃えてこう言う。それが、僕が施設入居は悪いことばかりではないと思う理由なのだ。

在宅介護の苦しさから、家族との関係が破綻し、終わりを迎え入居になるよりは、良好な関係のうちに入居することで、その後の施設生活も豊かな関係を築いたまま過ごせることもある。

おばあさんは家族が限界まで耐えたが、もっと前に施設という道があることも想像できたはずだ。

それが選択肢として現れなかったのは、自己批評的に言えば、僕ら施設介護に属するものたちが、自分たちのケアを上手く表現できない脆弱性と、これまでの貧困な介護力によるところが大きいのかもしれない。結局のところ、安静看護から脱することのできない事実を、世間の目は見抜いている。とまで言えば自虐が過ぎるか。


もちろん住み慣れた家で暮らすのは誰しもが望むことだろう。だが、施設入居を「最後の手段」として扱うのは、是非考え直して欲しい。暮らす場所は、どこで暮らすではなく、どうやって暮らすかで決める方がいい。

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