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先生の夢

今日はアンサンブルコンテストの県大会だった。私はエントリーしていないが、ウチの楽団から出ているメンバーがいるので、応援がてら聴きに行った。
数十年前までは毎年のように出場していた。夏はコンクール、済んだらアンサンブルコンテスト、というのが普通のルーティンになっていた。
今まで所属したどの楽団でも、コンスタントに出場させてもらえた。有難い経験をいっぱいさせてもらえて幸せだったなあ、と思っている。
もういつ何時、親のことで迷惑をかけるかもしれないので、最近はアンサンブルはちょっと遠慮している。いきなり本番に親がどうこうなったら、チームごと棄権になってしまうからだ。
いっぱい楽しませてもらったし、もう聴く方に専念しようと思っている。

それにしても皆さんとても上手い。私の出場していた頃とは隔世の感がある。この人達に優劣をつけて、二チームか三チームを代表として上の大会に送り出す訳だが、審査員も大変だろう。
仕事や家庭がありながら、ここまで仕上げるのは大変だろうな、なんて思いながら聴いていると、昔クラリネットの師匠、K先生にこんなことを言われたのをふと思い出した。
「良いですねえ。音楽を趣味にできるなんて」

K先生は心の底から羨ましそうに言った。あまりにも意外に感じたので、未だに鮮明に記憶している。
私にとっては不思議な言葉だった。だって音楽を仕事に出来る方が、私から見ればよほど羨ましい。好きなことで食べていけるなんて、最高ではないか、と思ったからだ。
私は思った通りに先生に言葉を返した。
「どうしてですか?音楽が仕事なんて、最高じゃないですか」
先生は大きなため息をついて仰った。
「仕事にしてしまうと、楽しめなくなるんですよ」

先生の言葉には音楽を深く愛して、その世界にどっぷりと浸かっている故の苦悩が感じ取れて、私の考えの浅はかさを思い知らされた。
私は続く言葉を見つけられず、ちょっと黙り込んでしまった。
先生はこうも仰った。
「食べていく、っていうのは選り好み出来ないんです。こんな仕事をしているくらいなら、この曲を極めたい。本当は気心の知れたメンバーと侃々諤々やりたい。そんな風に思っても、食べていく為にはそうばかりも言ってられません。趣味は良い。それが叶えられるじゃないですか」
ああ、先生は既に音楽を心から愛してるのに、もっともっと愛したいんだなあ、愛したりないんだなあと思った。
こういう愚痴っぽいことを先生が仰るのはあまりないことだった。

「先生は一流でらっしゃるじゃないですか。私から見れば侃々諤々も凄くやってらっしゃいます。まだ足りない、ってことなんですか」
先生からは、アンサンブルの時の仲間たちとの長時間に及ぶやり取りを聞くこともあったから、十分芸術家人生を謳歌しておられるのだとばかり思い込んでいた。
先生は苦笑いしてこう仰った。
「毎年毎年、全国の音楽大学からクラリネット奏者が沢山生まれます。彼らと切磋琢磨しながら、でも生きる為に仕事を勝ち取っていかなきゃいけない。
若い人ほど技術はあります。これは順送りで、僕たちも師匠からそう言われてきました。今技術的に頂点にいる人間も、いずれ追われる立場になります。ほんの一握りの人間をのぞけば、みんな一緒なんです。
いざ、自分が追われる立場になると苦しいものです。うかうかしてられません。練習していかなきゃいけない。でも食べる為には稼がないと。仕事をしているとどうしても練習時間は減ります。だから僕らは少しの時間も惜しんで練習するんです。
楽譜の研究だってもっとしたい。仲間とアンサンブルだってしたい。音楽が仕事でなければそれが全て叶うんです。だから趣味に出来るあなたたち素人が羨ましいんですよ」
先生は何かを諦めたような顔をして、私を見て笑った。

「先生、でもね、素人は仕事を他でしてますよ、食べる為に」
私が笑いながら言うと、先生も一緒に笑って、
「そうなんですよね。贅沢な望みです。我儘ってわかってるんですけど。何の心配もなしに音楽のことだけ考えて生きていけたらどんなに幸せだろう、って時々思ってしまう事あるんですよ」
と仰った。そして、
「ま、贅沢な夢ですけどね」
と付け足した。
愚痴を言わない先生の、ちょっとした本心を盗み見た気がして、少し嬉しかった。それと同時に芸術家になり切れない先生の苦悩を思った。

今は教えることを中心に仕事にしておられる。
音楽を心から愛している先生の夢が、いつか叶うと良いなと思っている。