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『あること』と『ないこと』

自分に今「ないこと」に着目するのは簡単である。
思う存分使えるお金がない。病気知らずの健康な身体がない。誰もが見とれる美しい外見がない。大谷翔平や藤井聡太のような抜きん出た才能がない・・・
当たり前なのに、ともすれば人は欲張りになり、ないものだらけの自分を嘆く。

「あること」に着目するのは難しい。意識しなくても当たり前に自分に備わっている事実を、わざわざ取り出して「ああ、自分にはこれがある」とあらためて見つめ直す作業は、面倒臭い上に意味を感じないからだ。
今、自分には命がある。食べるものがある。家族がある。
非常事態にでもならないと、『そんなの当然じゃないか』という風に思う人が殆どだろう。

それでも今一度、私がこの面倒臭い作業をやり直すのは、『如何に自分は満たされている、在ることが難しい存在なのか』ということをしっかり目を見開いて見つめ直す必要を常々感じているからである。

『私にはなんだか足りない足りない』と思い込んでいると、心の贅沢病になる。心が渇きすぎてカラカラだと感じてしまう。そして本当はそんなに乾いているわけではないのに、やたら水を求めて焦る。
『足りない』というのは『誰かと比べる』ことだ。
『誰か』は先に挙げた、所謂『満たされている人』と思われる人である。『満たされている』と判断する基準は、何か。
『世間』という極めて曖昧な人々に評価のあるなしだ。それを自分が信じている、ということだ。
『世間』が誰でどんな人々なのか、『評価』をしているのはどこでどんな方法なのか、突き詰めて問われれば答えに詰まるくらい、いい加減なものなのに。

『私はなんだか足りない』という考え方をしてばかりいるのは不幸である。
不幸だからそういう考え方になるのではなくて、そういう考え方をするのが不幸なのだ。
事実は一つしかない。そして全ての事実は幸福と不幸をセットで併せ持っている。『足りない』事実の裏側には『実は足りている』事実がある。
そのどちらに着目するか。自分はどちらを与えられたと思うか。
それだけなのだ。

何度も書いているが、私は毒親育ちである。
その結果、子供を苦しめることになった。家族も一旦はバラバラになった。
眠れない夜も数えきれないくらいあった。
ここだけ取り出してみれば、私は不幸な人間だった、という事になるだろう。今風に言うと、私の『黒歴史』と言えようか。
しかし家族がバラバラになったおかげで、私は沢山の素晴らしい人々に出会えた。なんとかしたい、という思いで自分を慈しみなおす作業は、私を生まれ替わらせた。
コツコツ地道に真面目にやっていれば、道が開けるということも身を以て実感した。
これが幸せと言わずになんだろう。

全ての出来事は繋がっていて、無駄なことなんて何一つ起きていない。
一人の人との出会いが更に新しい出会いを生む。『新しい』とはいうけれど、それはきっと私の人生の予定表に、神様によってとうの昔に書かれていて、私が知らなかっただけなのだ、と思う。
出会いによって起こしたアクションは結果を生む。そのアクションを起こすことが私を育て、その結果について考えることが私をドンドン進化させていく。新しい考えが浮かぶ。そこから更に新しいアクションを起こし、新しい出会いがある。
全て『自分の考えた通り』になっていく。

生きていれば腹の立つこともある。損したな、と思うことも、嫌だな、と思うことも勿論ある。
だけどそこにばかり着目していると、その事象は本当に損で嫌なものになる。
一旦思考をストップさせ、起こったことから得たものについて頭を冷やし、冷静に考える。振り返って、そのままの事実を見てみる。
難しく考えなくて良い。単純なことだ。
腹を立ててもいいし、嫌だと思ってもいい。感情を否定する必要はない。
ただ、そこだけに固執するのは人生を損していると思う。









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