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チマチマムシムシ

器用か不器用か、と訊かれたら即座に『不器用です』と答える自信があるけれど、細かい作業が嫌いかというとそうでもない。むしろ好きである。
料理は私の苦手分野の筆頭だが、豆ごはんを作るために、エンドウ豆の皮を剥いたりするのは好きだ。
餃子を包むのにも夢中になる。
子供の頃はよく蕗の筋取りを手伝わされたが、鼻息をスースー言わせながら、指先を灰汁で真っ黒にして一心不乱にやっていた。
栗の皮むきはちょっとしんどくて面倒だと感じるけれど、嫌いではない。
後で美味しいから、ではなくて、単純に作業そのものが楽しいのである。

レジ係の作業は多岐に渡るが、中に『レジ袋を畳む』というのがある。
ランドセルやリュックなどを入れる特大サイズの袋は、そのままだと大きすぎて袋の収納場所に入らない。二つ折りでも到底無理である。
そこで綺麗に四つに折って、長さ三十センチ、幅十センチくらいの細長い板状にするのである。折り方もちゃんと決まっている。
皺になるといけないので、丁寧に伸ばしながらピシッと折り目を付ける。
使う時はどうせ伸ばしてしまうので、そんなに丁寧にしなくても良いようなものだが、いい加減に畳むと収納場所に入らない。無理に入れると雪崩が起きてしまって、袋が散らばる恐れがある。
なので接客の合間を見つけて少しずつ折るのである。お客様から見たら不思議な作業だろう。面倒なようだが、これが私には結構楽しい。
いつも一人、ムシムシと折っている。

子供の頃、母が縫った服などの『仕付け糸』を取る作業も好きだった。
切ったカラフルな仕付け糸が、小さな『=』のようにあちこちについているのを、毛抜きでそっと抜くのである。残さないように、生地を傷つけたり伸ばしたりしないように、慎重に抜く。
稀に本縫いのミシンに縫い込まれてしまったりしていると、本縫いの糸を緩めないようにと、息を詰めて一層慎重になるのだった。
洋裁そのものは未だにからっきし駄目だが、この作業だけは楽しかった記憶がある。

花壇の雑草引きも好きである。
子供の頃は、庭の芝生に生える雑草をしょっちゅう抜いた。父からどれが雑草で、どれが芝の新芽か、を詳しく教えてもらい、背中にポカポカとした太陽の光を浴びながら、足腰が痛くなるまで夢中でやっていた。
不思議とやらされた感とか、父に褒められたい、という気持ちはなかった。父は滅多に人を褒めなかったから、子供の私はそんなこと、きっと端から諦めていたのだろう。ありがとうと言われた記憶もないが、それを恨みに思っていたということはない。
かといって父に隷属する、といったような卑屈な気持ちはなく、自ら進んで『ちょっと面白い作業をする』ような気持ちだった。
子供だから、単純に土いじりが楽しかったのかも知れない。
抜かれた雑草がこんもりと小さな山になっていくと、ちょっとした達成感のような、なんだか凄く良いことをしたような、そんな不思議な気分になっていた。

こんな風にチマチマした作業が好きなんて、私は変なのかな、と永らく思っていた。
ところが四十年ほど昔、PTAの集まりで一緒になったママ友が、
「なんかさー、時々無性にチマチマした作業したくなることってない?無心にさー」
と訊いてきたので、おや、と思った。
その場に居たメンバーも一様に同意していたので、そういう人は案外多いのだなあ、と意外な感じがすると同時に、私だけじゃなかったんだ、良かった、と少し安心した。

勝手な持論だけど、チマチマした作業をムシムシとするのは、精神安定のためにとても良いと思う。
脳は一日に六万回の思考をしている、と何かで読んだことがある。そんなにたくさんの想念が湧いていると、きっと脳だって疲れるに違いない。
単純作業に集中して脳味噌を文字通り『空っぽ』にすると、休憩が出来るから脳が喜ぶのだろう。
じゃあチマチマした作業をムシムシするのが好きな私の脳は、考え過ぎで常に疲れてる、ってことなのかしらん。
いずれにしても小さくて単純な手作業を夢中でする時、私は幸せな気分を味わっているから、まあ良しとしよう。



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