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母と娘

母は今でも時折、私を自分の思い通りに動かそうと、あの手この手で画策してくる。
昔と違うのは、私の方が
「ああ、またやってるな」
と客観的にそういう母の姿を眺められるようになったことと、そういう母を目にしても怒りも悲しみも湧かなくなったことである。
私を支配下に置こうとする母を遠くにただ遠くに在る、自らの人格とは切り離した個の存在として認め、良い意味で冷めた目を以てその行動をじっと眺める。
こう書けば簡単なようだが、つい数年前までの私には非常に難しいことだった。

母が私を自分の領域に引き擦り込もうとするのは、生い立ちを考えれば仕方のないことである。責めてもなんの得るものもないことは明白だ。
にもかかわらず、以前の私はそんな母を諦めたくなかった。なんとかして気付いて貰いたいと虚しく葛藤していた。
しかし母は私とは別の人格を持った人間で、その点に関しては市中にいるそこらの人となんら違わない・・・という当たり前の真理に気付くまでに、何十年という長い月日を要した。それは、親子という特別な絆のある人物を易々と諦めたくないという執着と、いつかわかってくれるかも、気付いてくれるかも、という子供としての単純な期待故であったと言えよう。

私が理解している『親としてのあるべき姿』を、母が全く分かっていないのは、私にとって最早嘆くべきことではない。母は分かっているように振舞うのが得意な人だが、その化けの皮がとっくに剥がれていることに全く気付いていない。
それを愚かしいことと嘆く気持ちも、とうの昔にどこかに置いてきてしまった。ただ、「ああ、母は分かっているように見られたいのだな」と言う風に理解するのみである。

母をそういう風にただ理解して眺めるだけということで、冷たい人間という誹りを受けるかも知れない。しかし当の私自身に後ろめたい気持ちはさらさらない。母に対する蔑視の気持ちがないからであろう。そういう人なんだ、という『客観的認識』が『そこにある』のみだ。
感情と事実の分離をとことんまでやると、こういうことになるのだろう。
姑に架ける毎日の電話での会話が苦痛でも何でもないのも、同じ理屈に端を発していると思う。

嬉しくはない。あーあ、分かってくれりゃ良いのになあ、と残念には思う。
しかし『なんで分からんねん、いい加減分からんかいこの阿呆が』とは思わない。
『”今の”母にはわからない』ということのみを理解する。要らぬ期待をしない。母の現状をそのまんま認識する。その上で、『人として』普通に接する。『娘として』普通にする声掛けを本心からする。
今でも相変わらず暇さえあれば、私を都合よく自分の領域に引き擦り込もうとする母であるが、母はそういう人だからしょうがない。その自覚があれば、引き擦り込まれる心配は皆無だ。

母には母の、八十余年で培った価値観がある。それは現在の私のものとは随分かけ離れているけれど、私とて随分長い間、その価値観の下に育てられてきたのである。共通項がないと言えば嘘になる。
しかし実家を出てもう二十五年になる。客観的に自分の育った家と自分を育てた両親を見つめ、あらためて自分の生きづらさと向き合った時、そこには間違いがあったと認めざるを得なかった。
向き合うのも認めるのも、嘗て経験したことがないほどの苦しさを伴う作業だった。一人ではとても乗り越えられなかったと思う。そこで大きな力を貸してくれた人は、私が自力で探しだした、母の価値観の範囲内で生きていたのでは絶対に出会えなかったであろう人だった。

自分の人生を変えるには、それまでの価値観に縛られず、落ちる事を怖がらずに、エイヤッと橋を飛び越える勇気が時には必要なのだと思う。その時必要になるのは『自分と自分の選択を信じる』ということであり、『何が起こっても自分次第、どうせ私は何があっても上手くいく』としっかり腹をくくって、ある意味開き直ることなのだと思う。

母も私も日々老いてゆく。
これからも母は変わらないだろう。でも私がそれを嘆くことはもうない。
神様が遣わしてくれたこのご縁を静かにただ受け入れながら、お互いの生命が尽きるまで『母と娘』で在り続ける。
ただそれだけ、である。








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