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周りの世界

先日、会話したことのない知り合いの車に乗せてもらう機会があった。
どちらも女性。一人は私より年上で、もう一人はぐんと年下である。
年上の人とは普通に会話が弾んだが、年下の人とは長い沈黙の時間があった。
この時のことを夕食時夫に話すと、
「お前、それようまあ平気やなあ。オレやったら、気ィ遣って無理やわ。なんか喋ろうとするわ」
と呆れられてしまった。
車という二人きりの密室で、ニ十分ほど黙ったままでいた私を信じられない、というのである。
別に私は不機嫌だったわけではない。疲れてはいたけれど、喋りたくない程でもなかった。特に喋る必要性を感じなかったから、喋らなかっただけのことである。

昔の私なら、多分夫が言うように『気ィ遣って』一生懸命『なんとか喋ろう』としていただろう。
『気ィ遣う』というのは、私にとって一体どういうことだったんだろうなあ、と皿を洗いつつつらつら考えてみると、昔の私は『「コイツは一体どういう人間なんだろう」と相手に勘ぐられている』と勝手に思い込んでいて、その時の相手の想像している『自分像』が『自分にとって嬉しくないものである』ことを恐れている、ということなんじゃないかなあ、という結論に至った。

相手が本当に私のことをどう思っているかなんて、分かりっこない。
ニコニコして喋っていたって、胸の内では舌を出しているかも知れない。
そんな未知の領域をなんとかしようと足掻いている状態が、『気ィ遣う』ということなのだろう。
つまり、密室での長い沈黙に耐えられないのは、『相手の自分への評価』が計り知れないことへの恐怖と不安によるものなのである。

こういう時、人間は大体悪い方の想像をするように出来ている。
『図々しい人間と思われているんじゃないか』『鬱陶しいと思われているんじゃないか』と勝手な推測をする。決して『良い人だと思われているだろう』とか『親しくなりたいと思ってくれているだろう』なんて、都合の良い解釈はしないものだ。
自らに好意的でない思惑を想像すると、当然不安になる。だから落ち着かない。ソワソワして、なんとかこの不安な妄想を断ち切ろうと焦って取り敢えずアクションを起こす。
これが『気ィ遣う』『なんとか喋ろうとする』という行為の正体である。

こうやって見ると、二人の間に横たわる沈黙に対する漠然とした不安と焦燥を生み出しているのは、誰でもない自分自身である、ということになる。
今回はたまたま特殊なシチュエーションだったけれど、こういうことは日常人と接する中で、誰にでも頻繁に起こっているのではないかと思う。

『気ィ遣う』のは『繊細で細やかな気遣いが出来る』という、人間としての長所である。悪いことではないが、それで精神的に疲弊してしまうのは『独り相撲に自分で負けてしまう』ことだと思う。
自分の心の内が他人にわからないように、所詮他人の心の内なんてわからないのだ、とスッパリ諦めるのが先ず肝要である。
そして自分を他者の評価基準から解放してやることも必要だ。
世の中の人間全てが自分を『良い人』判定してくれなくても良いじゃないか。いや、自分以外の全員が自分を『変わった人』と思ったとして、それは自分が生きていくのになんの影響があるだろうか。
全く関係がない。

車を降りる時、彼女は
「お疲れ様でした。なんか緊張してお話できなくて、気まずくてスイマセン」
とはにかんだ笑顔を見せてくれた。
ほら、やっぱりいい人だった。

『自分は良い人に囲まれていて幸せなんだ』と思えばそうなる。
『自分はきっと変わった人だと思われてる』『嫌われてる』と思えば、悲しいけれどそうなる。
脳内で作り出す自分の周りの世界を温かいものにするのも、冷たいものにするのも、結局自分次第なのである。










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