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習慣的フライング

私の家から八分ばかり歩いたところに、少し大きめのスクランブル交差点がある。南北と東西に抜ける幹線道路が交差し、すぐ近くに駅や商業施設が立ち並ぶ。ここから駅までは二分くらいなので、歩行者の数も多い。
大きい交差点だからだろう、ここの信号は完全に歩車分離式になっている。南北に抜ける車道の信号が赤になり、やがて歩行者が一斉に渡りだす様はなかなか圧巻である。

こちら関東に来て、車もだが歩行者のマナーの良さに常々感心している。
こういう交差点でも、皆さん完全に信号が変わるまで絶対に渡ろうとしない。『マナーの良い人』が多い、というより、『マナーの良い群衆』である。
本来こうあるべきなんだろうけど、このちんまりとマナーの良い群衆を目にすると、私はなんだか鼻の奥がムズムズする。別に腹は立たないが、なんとなく血が騒ぐ。
そして歩行者用信号が変わるより早く、車道側の信号が赤になったのを確認するやいなや、大きく一歩を踏み出す。周りにそんなはみ出し者はいないし、大股でガツガツ歩くタイプときているから、かなり早い時点で私は一人、交差点の中央付近を闊歩している。それくらいになって漸く歩行者用の信号は青に変わり、お行儀のよい群衆がゆるゆると歩き出す。

若い頃、日常的に大阪梅田の阪急百貨店側からJR大阪駅に向かう横断歩道を渡っていた。この横断歩道での経験が現在の私の渡り方の『基礎』になってしまっているのだと思う。
『いらち』(関西弁でせっかち、短気、の意)の関西人の象徴のようなこの横断歩道の渡り方は、今の私の渡り方と全く同じ、いや私の方が随分大人しいと思う。みな『轢いたら車の方が悪いんや』『みんなで渡れば怖くない』と言わんばかりに、赤信号でもガンガン歩く。因みにここはスクランブル交差点ではなく、普通の大きめの横断歩道である。青信号が点滅し、やがて赤信号に変わってしまってもギリギリまで渡ろうとするから、当時は『中州』(橋脚)の部分にいつも何人かが必ず取り残されていた。危ないことこの上ない。ヒヤヒヤして見ていた記憶がある。もう随分長いこと行っていないが、最近は変わったのだろうか。

初めの頃はこういう大阪人の行動パターンに大変戸惑った。交通弱者の歩行者が、しかも群れで、堂々とルール違反をするなんて物凄く驚いたし、車がそれに慣れて粛々と普通にかわしているのにも目を丸くした。青信号で渡り始める時には、周りの半数以上の人々が既に横断歩道のかなり前の方を歩いているのにも衝撃を受けた。
しかし一旦慣れてしまうと怖いもので、この横断歩道を渡る時はこうでないと落ち着かないようになってしまった。
全く褒められた話ではないが、この時の経験が私のDNAに刷り込まれてしまったようだ。
今でも歩行者用信号より車道の信号を見てしまう。おっしゃ、もう一台も来ないぞ、となったらもう、待っている理由なんてどこにある。足は自動的にさっと前に出てしまう。

おまわりさんは別として、この辺の人々はこういう他人の行動に甚だ無関心である。
だから私がぴょこんと一人先に歩き出しても、『なんかせっかちな人がいるなあ』と思うくらいなんだろう。もしかしたら認識すらされておらず、『え、そんな人いたっけ?』というレベルかも知れない。
『他人が何をしようと自分には関係ない』という軽いサラサラした空気が街中に漂っている。群衆はマナーを守ることが当たり前だけど、『まあ守らない人も居るんじゃね?でも人は人だし、別に良くね?』くらいの感じである。

ここに来るまではずっと地方の田舎暮らしで、下手すると子供の受験校や夫の勤め先、役職などまで根掘り葉掘り聞こうとする狭い社会に息が詰まる思いをしたこともあるから、こういう都会の群衆的無関心は気楽な時もある。
しかしお隣さんもお向かいさんも、どんな方なのか全く知らない。積極的に知ろうとも思わないが、これはこれで良いんだろうか、とちょっとした疑問を覚える時もある。
人とのいろんな付き合い方に慣れていかねばならないのは転勤族の運命なんだろうけど、ここではこれが隣人や周囲の人との適度な距離感なんだろうか。
交差点で誰よりも早く一歩を踏み出す時、小さな違和感と住み慣れた関西への憧憬が、いつも私の背中を押すのである。





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