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真の親孝行

木曜日から弾丸関西行きを決行して、昨夜無事帰ってきた。
両方の両親と顔を合わせ、会話をした。なんのかんのと墓参りも出来て、全てのミッションを恙なくこなせてホッとしている。

実家の両親の喜び様ったらなかった。
父は普段は寡黙で、電話に出ても殆ど喋らずに母に交代してしまう。だが一昨日はずっと喋りっぱなしだった。
母も他愛ない近所の話をいつものように止めどなく口にしつつも、何度も『嬉しいわあ』と繰り返していた。
二人の喜ぶ顔を見ていたら、本当に来て良かったと思えた。

帰る道々、新幹線の車窓越しに美しい海を眺めながら、私の胸は満足感でいっぱいだった。
数年前の私ならきっと、
『ああ、やっぱり親が年を取ると大変だな。これからどうなるんだろう。今はウチの両親が元気だから良いけど、舅姑と同時に大変になったらどうしよう。お父さんは頑固だから色々大変になるだろうな。それにしても疲れた。なんで私ばっかりこんなことせなあかんねん。自分の仕事もあんのに。夫はきっと自分の食事した後の皿も洗っていないんだろうな。全く、誰の親の為に行ってやってると思ってるねん』
と恐怖と不満ダダ洩れの気分で、ただぐったりと疲れていただけだっただろう。
そして世間的に『親孝行をしてきた、立派な娘さん』という体面を保てたことにのみ、『エセ満足』していたに違いない。

ちょっと前までは母の日にカーネーションを贈る度、なにかモヤモヤした、嫌な気分が胸に去来するのを抑えきれない自分が居た。
確かに親の喜ぶ顔を見るのは嬉しい。
だが、以前の私のようにそれが『世間的な評価を勝ち得たこと』に対する喜びになってしまうと、自分の満足は得られない。だからモヤモヤしたのだ。

自分の人格が形成されていった過程に大きく関わった、親への不満の示すものは、実は現状の自分への不満なのである。
親というものは子供がこの世に生まれ落ちた瞬間から、経済的にも環境的にも強力な庇護者である為、子供は自分の身の安全と安心のために、本能的に盲従してしまう。
本当は親の方が早いうちにそこに気付き、『君が何をしたって守ってあげるよ』というメッセージを送り続けていれば、子供は安心して『ああ、自分はこのままで良いんだ』と思いながら育っていく。
しかし親自身がこのように育てられていないと、これはなかなか難しい。
親子間の『負の連鎖』が延々と続くのは、これも一因だろう。

今の自分を満足させる為に、『おもてなし』する。ちょっとしたことで良い。
朝の食事に好きなフルーツを添えてみる。少しくらいお高くついても、『あ、これ好きかも❤』と思うスイーツを買ってみる。
平日の夜、行きたいコンサートに行ってみる。食事の支度はちょっと夫にゴメンと言って、一回サボらせてもらう。
この時も『私普段頑張って家事してるんやから、ちょっとくらい行ってもエエやろ』と夫に傲慢な宣言をして行くのではない。『私、どうしてもこれ行きたいねん。ごめんやけど夕食どっかで食べて帰ってくれへん?』と心からお願いする。
私が本当に満足して帰ってくれば、夫もきっと良かった、と思ってくれるだろう。ダメ、と言われて私がむくれながら雑に用意した夕食を食べるよりも、夫も幸せというものだ。
過去の自分は変えられないのだから、今の自分を満たすしかないのだ。

今、私が心から良かったと思えているのは、きっとこういう小さなことを沢山積み重ねてきたからなのだろう。
そしてその積み重ねる過程には、そういった行動をする自分に理解を示してくれた家族があり、周囲の人々があった。それを自覚する時、あらためて自然な感謝の念が沸き上がる。
この感謝の念が、更に自分を満たしていく。この感謝は心からのもので、世間的な評価は一切関係なしだ。だから清々しい。感謝しながら自分が隅々まで満たされていく。
こういった気持ちで、自発的にする親孝行はただ、楽しく嬉しい。

親が年老いていく、という将来の確定した現実はあるが、やみくもに恐怖してみても何も良いことはない。
それよりも、日々自分を満たしていこう。
そうすればきっと、真の『親孝行』が出来る。

駅に近づき、
『もうすぐ着くよ』
と夫にLINEしたら
『ありがとう。お疲れ様』
と返ってきた。
『こっちこそありがとう』
と返して夕闇の迫る、帰り慣れた道を足取りも軽く歩きだした。







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