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”アンチ”アンチエイジング

『アンチエイジング』という言葉が好きになれない。歳を重ねることに対する恐怖を感じるからだと思う。
時間の経過と共に、万人は等しく歳をとり、やがては天に召される。その自然の摂理を抗うことが出来ない、悲しく惨いものと捉えることに抵抗を感じるのだ。
特に美容に関して使われることが多い言葉だが、ある一定程度の年齢になってきた人間(特に女性)は、この言葉を意識しないと、『衰えて汚くなっていくことに無関心な人』と自動的に他者から認識されるような気がする。
他者が自分をどう見ようと勝手なのだが、そういう決めつけを自動的に、勝手にされるのがちょっと癪に障る。

老化防止が面倒くさい、自堕落な人間であることは潔く認めよう。
だがそもそも、『老化』って『防止』出来るのか。絶対無理に決まっている。
ある程度、『進行を遅らせる』ことは出来ても、五十代の肌に二十代の輝きを蘇らせることは普通には出来ない。
よく通販番組などで『この人の実年齢はなんと〇〇歳!』などと謳って効果を宣伝するものがあるが、あれを本当に信じる人は殆どいないだろう。
不自然に白いライト(我が家では『(鈴木)その子ライト』と言っている)をこれでもか、というほど浴びせ、表情も麗しい自称『〇〇歳』。それと比較して『以前はこうでした』と出される写真は表情も暗く、口元は明らかに下がり、メイクもいい加減である。ライトなんて殆ど当たっていない。
比較対象が極端なほど、商品の効果は大きく見えるから当然こうなるのだろうけど、『なんにもしないあなたは現状、こんなに汚い顔をしてるんですよ』と言われてるような気がして、物凄くやーな感じを受ける。

自分の顔が他人にどう見られているか、については年齢と共にあまり意識しなくなったつもりである。しかしやっぱり集合写真などには出来るだけ映り込みたくない、と思ってしまうところを見ると、まだまだ意識はしているのだろう。
『女を捨てている』訳ではない。日々のパックは欠かさないし、お気に入りの香水を一振りするのも忘れない。
ただそれは『アンチエイジング』の為にしているのではなく、『自分がそうすると満たされるから』やっているのである。他者からの目線を出来る限り完璧な鎧でごまかそうとするのではなく、今の自分がそうしたいからやっているに過ぎない。

職業柄、毎日たくさんの高齢のお客様に接するが、その個人差の大きさにいつも考えさせられてしまう。
あまりに無関心が過ぎるのもどうかと思うし、明らかなやり過ぎは見ていて気の毒になる。どちらもこうはなりたくない、と思う。

ウチの店に毎朝とれたて野菜を直接搬入している、Kさんという七十代後半くらいの女性がいる。青果に『Kさんの野菜』コーナーがほんの少し設けてあり、そこに置く野菜をおろしに来るのだ。数量は少ないが、人気商品ばかりである。
大きなトラックがバンバン入って来る搬入口に、Kさんは小さな古い軽トラックでよちよちと乗りつける。荷台からよっこらしょ、といくつかの箱を降ろし、
「おはようございます。いつもありがとうございます。今日もよろしくお願いします」
と青果コーナーの担当者に丁寧に挨拶して去っていく。
Kさんはいつもカラフルな割烹着姿で、モンペをはいている。多分、農作業を終えてそのままやってこられるのだろう。勿論顔はスッピンである。
この人の頬がなんだかツヤツヤしているのだ。
話す時はいつもニコニコしている。朝の搬入口はちょっと殺気立っていて、そばを通る時はなるべく早く通過しないと、という気にさせられるのだが、Kさんの居る辺りにはいつも、ふんわりした雰囲気が漂っている。

Kさんはきっとアンチエイジングなんてしていない。でもお肌はツヤツヤしている。声も張りがあって年齢を感じさせない。
近くを通る人はみんな、Kさんに挨拶しながらついつい笑顔になってしまう。私も会うのが楽しみである。
Kさんの作る野菜はどれも味が濃くて美味しい。
Kさんが『汚いお年寄り』だなんて、これっぽっちも思わない。

昔、上司に『顔はその人の歴史を刻んでいる』と言われたことが忘れられない。
その歴史を、手っ取り早く取り繕うことなんて出来ないと思う。
『自分は汚い』という、暗く歪んだ発想からの小手先の若返りに夢中になるより、今の自分を満たすことに注力する方がよっぽど自分を美しくするんじゃないか。
そっちの方がよほど効果的な『アンチエイジング』だと思う。

さ、顔洗お。










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