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犬の眉根

小学生だった私の従姉が、
「うちの犬は笑う」
と大真面目に言って、集まっていた親戚が大爆笑したことがある。当時は私も一緒に笑っていたのだが、後に自分のところでも犬を飼うようになり、従姉の言ったことはあながち嘘ではない、と思うようになった。
犬は表情豊かであると思う。目にも表情が現れる。今の時代こそ、激しく同意してくれる人は沢山いるだろうけど、昔はこういうことを言うと、なに寝言言うてんにゃ、という感じに受け取られる方が多かったように思う。

犬に表情があるのを強く意識させられた体験がある。
私はほんの一時期だが、地域の視覚障碍者センターにボランティアとして通っていた。ここでは視覚障碍の方の調理実習とか、歩行訓練、外出訓練など生活していくための様々な訓練が行われていた。
建物はよく考えて作られており、段差は少なく、ぶつかっても痛くないよう、全ての柱や壁の角が丸くなっていたのが印象的だった。

実は視覚障碍者の半数以上が、働き盛りの年齢になって初めて、視力に問題を生じた人だ。原因は色々あるが、主なものはやはり疾病である。不慮の事故や仕事中の労災も多い。自分だって決して例外ではない、と思わされる数の多さだ。
そこから先の人生は決して短くはなく、まだまだ子供や親も健在であるから、出来るだけ自立して生活できるよう、皆さん本当に一生懸命訓練される。

歩行訓練の中に、盲導犬を伴って行うものがある。いきなり外での訓練は危ないから、最初はこの施設の建物の中で始める。
盲導犬がハーネスを着けている時は「お仕事中」なので声をかけてはいけない、というのは広く知られている。私達ボランティアもなでなでしたいのをぐっと我慢して、心の中で「頑張れー」と応援しながら見守るのみであった。彼らの姿は凛としていて、でもご主人に甘える時の様子は本当に人間の子供のようで可愛らしく、ボランティアはみんな、彼らに会えると大喜びしていた。

盲導犬と歩く時は堂々と歩かないといけないようで、皆さん大股でさっさとためらわずに歩かれる。が、犬と慣れていない時は上手く指示を出せず、その勢いのまま壁に激突してしまうことも多い。
「絶対に『ああ!』とか『危ない!』とか言ってはいけません。突然の大きな声は犬が怖がりますから」
と施設の人から言われているので、ぶつかる!と思った瞬間、私達は両手で目を塞いだり、ぎゅっと目を瞑って顎を引いたりするしかない。間もなく訓練生が倒れる大きな音が聞こえると同時に、白状が転がり、サングラスが床に飛び散る。でも起こす手助けはしてはいけない。白杖を拾うのも厳禁である。これは人間として結構辛いものがある。
だがご本人の為にならないから、と言われればやむを得ない。心を鬼にする。

こういう時、盲導犬はどの子も皆同じような表情をする。申し訳ないような、自分の失敗を恥じるような、そんな表情で転倒したご主人を心配そうに見ている。目が悲しみでいっぱいなのがよくわかる。首が下がって、物凄くしょげている。見ているこちらが泣きそうになってしまうくらいである。
そんな時、盲導犬は必ず『眉根』を寄せている。犬の、あのひょんひょんと数本しか生えていない眉に本当に『眉根』なんかあるのか、と笑う向きもあろうが、本当に『眉根』が寄っているのだ。
まるで人間のように感じる。違うのは口がきけない事くらいではなかろうか。彼らは感情のやり取りまでできる気がする。

ご主人が立ち上がるまで、彼らはずっとそばで待っている。立ち上がるとまたしゃんと胸をはって、ご主人の「ゴー」の掛け声を待つ。そして再び歩き出す。ご主人はまた同じように転倒することも珍しくない。それでもまた、ご主人が立ち上がるまでじっと待っている。静かで、ゆっくりで、でもひたむきである。
この子達を見て心を動かされない人がいたら、人間じゃないと思う。

街で盲導犬を見かけると、必ずあの頃の歩行訓練の様子を思い出す。きっとこの子もいっぱい訓練したんだろうな、ご主人を支えることに喜びを感じているんだろうな、と微笑ましく思う。
盲導犬とそのご主人に、心の中でいつもエールを送っている。