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かなえてしまった夢!

少し前にクラリネットに関する自身の思い出話を書いた。ジャス界の大御所に厚かましく『ムーンライトセレナーデ』の演奏技法について問い合わせたら、丁寧にお電話とお手紙を頂き恐縮してしまった、という話である。
そしてこの方の演奏する『ムーンライトセレナーデ』を聴きたい、直接お礼が言いたい、とも書いた。
実は書いてから十日も経たないうちに、この夢が思いがけず叶ってしまった。

この大御所の名前は北村英治さん。知る人ぞ知る、日本ジャズクラリネット会の重鎮である。
今年で御年九十五歳。おそらく現役最高齢のクラリネット奏者だと思う。
下手っぴな一アマチュアクラリネット吹きの、基礎を何も理解していない故の荒唐無稽な質問に、丁寧に向き合い真摯なお答えを下さった北村さんには本当に申し訳なく、ただただ頭が下がる思いである。そしてその懐のとんでもない深さにあらためて尊敬の念を強くする。

今は北村さんのライブは月に二回ほど。東京銀座と大阪の梅田の二箇所で行われている。時間は夜だし少し私には場所が遠くて、ずっと伺えずじまいだった。
ところが、である。
ある日、北村さんのライブスケジュールをHPで確認していたところ、ほんの数日後になんと私の居宅から電車でニ十分くらいのジャズバーで、久しぶりにライブがあると書いてある!
もう、これは運命だ。行くしかない。すぐに席を予約しなくては。
夫に告げる為、階段を駆け下りる。
「なあなあ、北村さん、○○駅の近くで××日にライブしはる!あんたも行かへん?」
我が家では『北村さん』というと英治さんのことである。件の電話の際、家中大騒ぎになったから、夫もよく覚えている。
「ホンマか!?行く行く!」
夫も大乗り気である。早速二人分の席を予約した。
店からの返事によると、予約者多数の為、相席になるとのこと。そんなもん、ちーっとも構いません。
ウキウキして当日を迎えた。

雑居ビルの地下一階。こういったライブハウスは夫も私も初めてだ。
仄暗い店内で席に案内され、カクテルとオードブルを頼むとちょっと落ち着いた。すると夫が、
「隣のテーブル見ろ。いらっしゃるぞ」
と言うので顔を向けると、北村さんが楽器片手に静かに座っておられるのが目に入った。豊かな白い髪が美しい。
わあ、ご本人だ!一気に高揚感が増す。
「お前、今のうちに挨拶してこいよ」
夫がそそのかす。
同じテーブルには『北村英治スーパーカルテット』のメンバーと思われる方々が、リラックスした雰囲気で静かに談笑しておられた。だが北村さんは話の輪に加わらず、じっと目を閉じておられる。
「本番前やし、やめとくわ。後で行く」
私はそう言って、遠くから眺めるにとどめた。

ライブが始まった。
こういう場は初めてだったが、北村さんの軽妙なトークと相まって、実に楽しい。私はジャズには本当に疎くて、知らない曲が殆どだったが、どれも凄く楽しめた。
観客からのリクエストで演奏曲が決まっていく、というのも初めて知った。私も勿論、『ムーンライトセレナーデ』をリクエストした。
「これはねえ、グレンミラー楽団の十八番ですねえ」
この曲になった時、北村さんはこう仰った。
「最近は吹奏楽部の中学生なんかも吹くんですよね。ところがこの曲はしんどい。上手に吹いてる子もいるんだけど、息も絶え絶えになってる子もいたりします。私なんかもね、この曲の時はリード(振動媒体)を(抵抗の)軽いものにしますね。頑張って厚いリードつけちゃうと、大変なんですよ」
そ、そんな大変な曲だったのか。リクエストして申し訳なかった、とちょっと冷や汗が出る。

でも演奏は素晴らしかった。当たり前だけど流石の一言に尽きる。
私に手書きの楽譜で『私ならこう吹きます』と書いて下さっていた箇所は、きっちりその通りに演奏なさっていた。なるほど、こうするんだったのか、とあらためて納得し、感動した。勿論惜しみない拍手を送った。
それにしても、北村さん音が大きい。マイクなんて通さないから、遠くまで音を届ける必要があるからだろうが、そんな音量でもあったかいジャズクラリネットの音がするのは凄い。これだけの音量で吹こうと思うと、大抵音が死んでしまう。逆に音を死なさないようにすると、これだけの音量はなかなか出ないものだ。
私、九十五歳でこれは出来ないだろうな、と舌を巻いてしまった。

一部が終わり、北村さんが自席に戻ってこられた。一時間立ちっぱなし、喋りっぱなし、吹きっぱなし。さぞお疲れだろうと思ったら、お仲間と熱心に話を始められてしまった。聞くともなしに聞いていると、どうもジャズ談義のようである。
遮りにくくて困って突っ立っていたら、ベースの小林真人さんが気付いて下さった。
「英治さん、なんかお礼が言いたいんだって。来て下さってるよ」
と話を中断するよう、言って下さった。
皆さんに謝って、ビックリしている北村さんにお辞儀をして、二十年前のお礼と今更やっと伺えたこと、今日のライブが素晴らしかったこと、を伝えた。
「そうだったの。もう覚えてなくてね。いやあ、ありがとう。嬉しいです。ねえ、嬉しいことだねえ」
一緒に座っていた仲間にそう言うと、わざわざ手を差し伸べて握手して下さった。
感動で胸がいっぱいになった。

まだあの時の幸せの余韻が、私の胸にたっぷり残っている。
ああ、夢って自分で行動して叶えるものなんだ。
それを実感している。