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日本一小さな町のnote #08[山]

日本一人口の少ない町・山梨県早川町の魅力をお伝えするnote、今回もカメラマンの鹿野がお送りいたします。

早川町は日本一人口が少ない町でありながら、ひとりひとりの町民は個性的というか、キャラが濃い方ばかりです。人口が少ないからひとりひとりが目立つのかもしれませんが…いや、やはり濃い方が多い。800人以上の町民を撮影した僕が言うので、たぶん間違いではありません。

なかでも一番濃い町民(※鹿野調べ)が深沢糾(ただし)さんです。以前は一番標高の高いところに暮らす町民でもありました。早川町には標高3190mで日本第3峰の間ノ岳と、その隣に標高3026mの農鳥岳があります。その両峰を結ぶ尾根の鞍にある農鳥小屋の主人が糾さんでした。過去形なのは2022年を最後に山を下りたから。2023年は怪我でドクターストップ。2024年はついに引退を決意しました。

ある程度登山をかじっている方であれば、“農鳥小屋のオヤジ”といえばもう説明不要かと思います。ドラム缶の上に座り、間ノ岳を下りてくる登山者を双眼鏡で眺め、「あ、小便したぞ」などとお茶目に笑うのはだいたい午後3時まで。それを過ぎてやってくる客には「おい、今何時だ?」。他にも軽装備や無計画な若者を叱りつけ、ホテルか旅館に来たような気分のシニアには小言…。

もちろん必要最低限の知識やマナー、用具を備えている人に対しては、陽気で人懐っこい山小屋のオヤジです。記念撮影にもノリノリ。僕も初めてお会いしたのは写真集『日本一小さな町の写真館』のためですが、「おいフィルムの無駄だぞ?」といいながらポーズを決めてくれました(ちなみに『日本一小さな町の写真館』は全編フィルムカメラで撮影しました。フィルム代が高騰した今では不可能に近いですが…)。

写真集に掲載したこのカットだけで、12枚撮りのフィルムを4本くらい使っています。流れる雲で太陽の光がたびたび遮られ、雑談しながら結局1時間近く撮影しました。このときのエピソードを、写真集の巻末に添えたエッセイで綴っているので引用します。

「星の降る山へ」

早川町の面積は369.86平方メートルで、これは東京23区の約6割と実に広い。しかもその九十六%は山林だ。たしかに町内にいて山が視界に入らないことがない。前出の上流研(編注:NPO法人・日本上流文化圏研究所)が作る広報誌の名称が「やまだらけ」で、実に言い得て妙だと感心したものだ。平成26年には早川町を含む10市町村にまたがる南アルプスがユネスコエコパークに登録された。日本で3番目に高い南アルプスの間ノ岳だけも、標高3190メートルの山頂は早川町にまたがっている。すぐ北隣には2番目に高い3193メートルの北岳だけがそびえ、南隣にある3026メートルの農鳥岳だけとともに白峰三山を形成している。
縁あって七面山に毎月登る僕も、本格的な登山の経験はない。七面山以外で登ったことがある高山は富士山くらいだ。その僕に、この写真集の企画立案に尽力してくださった日本出版ネットワークの藤田順三さんは「早川町の写真集を作るのなら、絶対に白峰三山へ登れ」と言う。藤田さんは山と溪谷社で役員まで務めたアウトドアの達人であり、この写真集の制作にも並々ならぬ意欲を燃やしていた。僕は決して山岳写真集を作りたいわけではなく、撮りたいのは人であり暮らしなのだ、と主張しても、藤田さんは白峰三山へ登れと言ってきかなかった。

しかし企画が始まった頃はすでに藤田さんの身体を病魔が蝕んでおり、程なくして白峰三山よりはるかに高い空の上へ旅立ってしまった。僕は少しでも藤田さんへ近付こうというわけではないが、白峰三山へ登ることが亡くなる直前まで、病室でこの写真集の企画書などを書いていた藤田さんへの供養になると思い、意を決して登ることにした。
そこで白峰三山について調べ始めると、早川町でもっとも高いところに住む町民がいることがわかった。標高2800メートルにある農鳥小屋の主人・深沢糾さんだ。実際には糾さんの家は麓の奈良田にあるのだが、山開きの5月から山終いの11月3日まで、半年近くのあいだ一度も山を下りないという。山岳界ではたいへんな有名人らしく、インターネットで検索をすると、怒られたとか、怒られたとか、はたまた怒られたとか、とにかく怒られたエピソードが数えきれないほどヒットする。
もっとも「あれほど山を愛し、登山者を思う山小屋のオヤジも、今ではめっきり少なくなった」という話もあり、とにかく会わずにはいられなかった。
奈良田からマイカー規制の県道をバスで北上し、登山口である広河原へ。登山の経験がない僕に、「やまだらけ」の編集をしている鞍打大輔さん(編注:#6で登場した「おすくに」のご主人)と加藤恒介さんがガイドとして付き添ってくれることになった。
這々の体で北岳を登り、肩の小屋で一泊。翌朝、北岳山頂から間ノ岳と尾根を歩き、午後一時頃、目指す農鳥小屋へ辿り着いた。農鳥小屋は午後3時が〝門限〟で、それを過ぎると糾さんのカミナリが落ちるという話だったので、ひとまず安心したのだった。

実際に会う糾さんはたしかにぶっきらぼうではあるものの、気さくで愉快なおじさんだ。山や自然に関する知識も深く、何より驚異的な視力に驚かされた。聞くと4.0だったか、5.0だったか、そんな数字を言っていた。でも零戦のパイロットはもっと目がよかった、俺はまだまだだとも言っていた。
その日の農鳥小屋周辺は雲ひとつない快晴で、美しい夕陽があたりを照らしていた。僕は夕食までの間、糾さんを追いかけてスナップを撮り続けていた。その間、小屋を少し下ったところにあるという水場へ、鞍打さんが僕のハイドレーションパックを持って水を汲んできてくれた。
そしてその晩のこと。僕は枕元にザックやカメラなどを置いていたのだが、ザックの中のハイドレーションパックから伸びるチューブを布団で踏んでしまい、中の水が漏れてしまった。もったいないと思いつつ就寝したのだが、夜中に喉が渇いて目が覚めた。枕元のチューブから水を摂ろうとすると、一滴も出てこない。焦ってパックを取り出すと、ものの見事に空になっていた。
農鳥小屋から奈良田までの下山ルートは、平均所要時間が片道13時間と長く、途中水場も1か所しかない。水を持たずに下るわけには行かず、かといって糾さんに「こぼしてしまったので水を分けてください」と言えば、夜明け前からカミナリが落ち、自分で汲んでこいと言われるのが関の山だろう。鞍打さんや加藤さんも必要最低限しか持っていないはずだ。翌朝は夜明け前の午前4時に小屋を発ち、水を汲みに行く余裕もない。

こうなれば今汲みに行くしかない。ヘッドライトと空のパックを持って、僕は真っ暗な外へ出た。小屋から水場へ向かう方向は、夕方水を汲みに行く人たちを見てなんとなくわかっていた。しかし標高2800メートル、山小屋しかない高山の夜は本当に暗い。慎重に道を探しながら歩いていると、やがて星明かりで周囲がうっすら見えるようになってきた。そして15分ほど下ると水の音が聞こえ、水場に辿り着いた。10月の水はとても冷たく、顔を洗うとえも言われぬ心地よさを感じた。そして開けた東の方角に目をやると、雲海越しの富士山が星明かりでぼんやりと浮かんでいた。そういえば夕方、糾さんが「夜の星空もきれいだぞ! 写真撮ってみろ」と言っていたのを思い出した。
なのに僕は水のことで頭がいっぱいで、カメラを小屋に置いてきてしまった。いつもの僕は撮りたいときにカメラがないとひどく後悔し、それゆえに肌身離さずカメラを持っている。しかしこのときはカメラを持っていないことすら忘れ、ただただ夜空を眺めていた。あの風景を見られただけで満足だった。藤田さん、あんなにうるさく「白峰三山へ登れ」と言った理由がわかりましたよ。人生で最高の星空でした。

『日本一小さな町の写真館』(平凡社)より

僕はこのときと、写真集が発行された後も一度登っていますが、実際のところカミナリが落ちるところは見ていません。小言は聞いたような気もしますが、ネットの書き込みをみると以前より怒り方がマイルドになったともいわれています。ご本人はパソコンを触らないので直接読んだことはないものの、自分のことがあれこれ書かれているのはよくご存知だそうです。

しかし僕は今回お話を伺うにあたり、糾さんが時間に厳しいということをすっかり忘れていました。「午後にお伺いします」とお伝えして、昼食が終わった頃がいいだろうな…と13時過ぎに伺ったら「おまえさんはアポの取り方が悪い!」と叱られました。12時から久々の来客を待っていたようです。

糾さんが時間や持ち物、マナーに厳しいのは、登山者の安全を思ってのこと。50年以上の山小屋人生でたくさんの事故を目撃しました。そして遭難した人を探し、負傷した人を助け、落命した人を弔ってきました。

ではそもそも糾さんはなぜ山小屋にいるのだろう? 浜松出身で、先代の主人の娘さんと結婚したのは知っていましたが、山小屋を継いだ経緯を聞きたくて今回ご自宅に伺いました。わかったのは京都の立命館大学に通っていたこと、大学を出てふらふらしていたこと(在学中は大学紛争のピークだったはず)、浜名湖を遊び場にして育ったので山はとくに好きではなかったこと、稼げると聞いて農鳥小屋でアルバイトを始めたこと。以上です。奥さまとの馴れ初めも聞きましたが、笑って「うん、まあ、そういうことだよ」とかわされてしまいました。

その奥さまも亡くなられて久しいですが、病に倒れても山小屋があるのでお見舞いに行けず、医師に「山小屋を閉じるまで持たせてくれ」と頼み込み、なんとか下山後に見送ることができたそうです。一方でNHK「新日本風土記」に出演したときは、「下山したら楽しみはありますか?」と聞かれ、満面の笑みで「孫が生まれたんだよ」と答えてエンディング、ということもありました。

糾さんは夏前に小屋を開くと秋まで一度も下山しない生活を何十年も繰り返していました。客が少ない日はアルバイトたちに任せることもできたはずです。でも「誰が来るかわからないし、何が起こるかわからないだろ?」。50年以上の山小屋生活で、怒って二度と来なくなった人もいるでしょうが、仲良くなった人もたくさんいました。普段は運転手付きの高級車で移動するような人が、汗をかきながら一日二日かけて会いに来てくれるんだぞ。こんなに気持ちいいことはないだろ?…と話す糾さんは、どこか懐かしそうでもありました。

以前の糾さんは冬から春にかけて、猟やキノコ狩りで奈良田の里を駆け回っていました。山で撮影した写真を届けたら、「持っていくか?」と鹿の腿をそのまま渡されたこともあります。今は銃も前出のおすくに・鞍打さんに譲り、自宅で穏やかに野菜を育てる日々。いや、飼っている2頭の犬が元気過ぎて、穏やかでもないようですが。

この写真は#7の取材で奈良田の山人砦に泊まった朝、偶然糾さんに遭遇して撮ったもの。「朝6時に連れてけってうるさいから散歩して、これが今日2回目だよ!」。

農鳥小屋については、農鳥岳と奈良田の間の長いルート上にある大門沢小屋の若主人が継承。寂しくないですか?と聞いたら、「やることもたくさんあるしなぁ」とおっしゃっていましたが、「(農鳥小屋の運営は)そんなに簡単じゃないぞう」と心配そうであり、また寂しそうでもありました。

もうドラム缶の上に座る糾さんはいませんが、北岳・間ノ岳・農鳥岳の白峰三山は変わらず甲府盆地を見守り、登山者を出迎えます。“技術の北アルプス、体力の南アルプス”といわれるだけあって縦走はハードですが、天空を貫く尾根や咲き誇る高山植物、そしてひょっこり現れるライチョウ、あの場所に行かなければ出会えない光景ばかりです。誰でも行けるわけではありませんが、それだけに行ける人には行ってほしい、そんな宝物のような世界だと思います。


毎年5月3日に行われる南アルプス早川山菜まつり、44回目を迎える2024年も早川の特産品がずらりと勢揃いします。ステージやイベントは盛りだくさんですが、山菜は早めに売れてしまうのでご来場はお早めに!


早川町の観光に関するお問い合わせは、早川町観光協会(TEL0556-48-8633)までお気軽にどうぞ。県道37号沿いの南アルプスプラザには、スタッフが常駐する総合案内所もあります(9〜17時・年末年始以外無休)。


■写真・文=鹿野貴司
1974年東京都生まれ、多摩美術大学映像コース卒業。さまざまな職業を経て、フリーランスの写真家に。広告や雑誌の撮影を手掛けるかたわら、精力的にドキュメンタリーなどの作品を発表している。公益社団法人日本写真家協会会員。


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