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アンモナイトの耳 4.

エディット・ピアフの『愛の賛歌』を聞いている。あのバイオリンの弦の震えのような歌唱法は、まさに時空を越えて、民族魂をも凌駕してすべての人間に愛を喚起している。
私の文学始めはヘルマン・ヘッセの『郷愁』だった。F.G.ロルカ、リルケ、ハイネ、アルチュール・ランボーなど偏りはあるが、何故かヨーロッパは私の感性に暗く深い影を落としている。なぜだろうか。
1980年代には心霊ブームもあり、守護霊とか指導霊とか中学生でも知っていて、私の指導霊は外国人などと良く夢想したものだ。随分早いが私はその頃からシュタイナーやダイアン・フォーチュンなどの難解な単行本を手にとってはいた。
もう一つ考えられるのは私の先祖にヨーロッパで生き死にしたものがいたか、私自身の前世がヨーロッパ人だったか、その両方だ。かの村上春樹の『騎士団長殺し』の日本画家のように、ヒトラーという皇帝が現れた疾風怒濤の時代ヘの理屈抜きの哀愁を感じる。私の心友は彫刻の源境ヘの思いやみがたくイタリアに滞在を繰り返し、彼の心友のキュレーターの女性はプラハにスポンサーを見つけていたり。
行進するナチスを響き渡る熱狂的な歓声で迎える民衆、市民社会全体が地下闘争に入り、暗黒の日々の向こうに、ようやく連合軍の希望の到来が人々に一息つかせた頃。様々な任務を帯びた少数グループが命がけの生きがいに自分の人生の存在理由をつかめた時代。まさにピアフにすべての人々が聞き入り、胸腺をかき撫でられ、一夜限りの性愛に明日を占った日々。そのへんの街角にごく普通に天使や悪魔の化身が佇んでいた時代。
シュタイナーの地上におろした時代霊、民族魂などの霊的概念は、ヨーロッパのすべての民族の命運が試される為の試金石だったが、エディット・ピアフの『愛の賛歌』やララ・アンデルセンの『リリー・マルレーン』の夜毎の歌唱には民族を越えてすべての人々が慰撫され鼓舞された。もはやそこに民族の違いは無く、あるのは時代のみだったろう。民族霊を越えた時代霊が降り立ち、一人一人の人間に時代魂を目覚めさせた日々のざわめき、遠い郷愁を私たちはハリウッド映画や往時の名曲の振動から、まざまざと追体験できる。なぜか。それが私たちの中にも受け継がれている時代魂であり民族魂だから。
おそらくメディアのせいで一切伝わって来ないが、ヨーロッパてもアメリカでも、まだ日本人のように去勢白痴化されていない野性の人間達が、自分達を殺戮し子供達を生贄にし、遺伝子を汚して神々を侮辱する者達との戦いに団結して地下戦線を張り巡らせているだろう。波は日本にもオーバーツーリズムとして打ち寄せているが、私はそれを時代の必然だと思い始めている。再び大家族を取り戻し、地域を蘇生させ、生きた組織を編み出しそして自ら時代の嵐を呼び寄せるには、日本人は実験動物として飼われすぎた。荒々しい鼓動の清々たる血液を、もう一度世界の海から混ぜ合わせることこそ、今私たちの世界に降り立っている時代霊のミッションなのだと思う。
そして新しい日本人を受け入れて、躍動する血と熱を日本人が取り戻し、持てるものを世界に逆流させることを、地球〜ガイア〜時代霊は望んでいるはずだ。新しいアダムとイヴには縄文一万年の生き返ったた、蘇生した日本人の血が必要なのだ。
まず、どっちでもいいけど、『愛の賛歌』『リリー・マルレーン』あたりから始めませんか?


民族の運命というものは存在するだろうか。ちょうどWW1からWW2の時代にかけて、フロイトやユングさらにはソンディといった異次元の心理学分野が切り開かれたことと、世界中の民族が戦火に襲われたことは関連していると思う。個人の無意識領域に潜在意識やリビドーといった概念をもたらしたフロイト。さらに民族〜人類にまたがる深層意識〜普遍的無意識にまで深化拡大したユング。そしてちょうどその中間に家族的無意識(祖先〜一族)を自己の体験から編み出したソンディ。ならばこのような無意識領域に潜み運命を駆動する人間の意識エネルギー(カルマ=因縁と業と霊的なもの)と、シュタイナーの概念化した民族魂〜時代魂はどのような位置関係なのか。唯一仏教のみが運命からの解放という真理モデルを持つ。ブッダ釈尊もまたシャカ族の持つ滅亡運命を回避する為に侵略軍の進路に立ったが侵攻をとどめられなかったと根本原始経典に記録されている。人類の持つ業(カルマ)を解脱するという技法思想に遭遇はしたが、西欧物質文明〜霊性はまだ、仏教の本義〜バワーに真の意味で目を開かれていないということなのだ。イエス・キリストの霊性を教会ヒエラルキーが喪失して久しい。

■画像は、ヤフー、エディット・ピアフ画像、リリー・マルレーン画像より。
■エディット・ピアフ、『愛の賛歌』を聞きながら。


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