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”らしさ”の再考

男らしさ、女の子らしさ。
子供らしさ、学生らしさ。

運動部らしさ、文化部らしさ。
新人らしさ、管理職らしさ。

人間らしさ。
じぶんらしさ。

”らしさ”とは何だろう、とよく考えるのです。
その言葉に、どれほどの意味が包含されているのか途方もないような気もして、一方でごくごく単純な一言で済ませられるような気もしています。

じぶんとは

”じぶんらしさ”とは、
自分は自分であり、自分のもので、自分が自分の思うように、自分の身体を自分の物として扱い、自分を守るため、自分を高めるため、自分の幸福を追求して、自分の人生を自分の物語として生きていくために必要な、自分とはどのような人物か、どのように、まただれと、どこで生き、所属し、いかような価値観、考えをもって行動している人間なのかというものを、かたどるための枠組みである。

じぶんらしさを説明するときに、常に視点は一人称であると同時に、決して”ひとりではない”ということも並びたてて考えているということがわかる。

「自分は自分のものである。」
この一文をとってみても、登場するのは自分だけなのだが、自分という言葉は己自身を指すと同時に、”他者ではない”というそれを証明するための反証的意味も持っている。

自分は自分のものであって、他者ではない確固たる自分である。
他者がいるからこそ、自分という存在がある。
自分という存在が、自分と他者を分けるのである。

では、自分は他者とは全くの別物か、というとそうではない。

見た目はどうか。
目があり、口があり、鼻があり、耳がある。
手がある、足がある、性別による区別によるものがある。

違うのは背格好や恰幅といったもので、例えば欠損や後天的事由によってどこかの部分がなかったとしても、同じ人間という概念の中では対して違いがない。

コミュニケーションの方法はどうか。
ことばを使う。
ジェスチャーも使う。
目くばせ、雰囲気、歩き方、あるいは背中の哀愁だけでも、わかるものはたくさんあり、自分と他者は常に関わりあっている。

そう、関係しあっているのだ。
自分と他者は、分け隔てられている存在でありながら、相互に関係を持っていて、ともに語らい、ともに過ごし、時には対立をしながら、人間同士、互恵関係を築き合っている。

じぶんらしさとは、自分は他者ではないという一方で、他者との互恵関係のもとに築き上げてきた、他者との関係性を含む”じぶん”とはなにかを考えていくものであり、決して同じ部分があってはならないというわけではないし、同じ部分がなくてはならないというわけでもない。

じぶんらしさを考えるとき、じぶんひとりを見つめる必要はない。
じぶんの周りにはどのような人がいて、どのような考えや価値観を持っていたのか、そして自分はどのような価値判断を行い、自分の考えや価値観を築いていったのかを考えよう。

うん、これは物語だ。
じぶんが主人公の、物語。
じぶんひとりでは、物語は進まない。
世界があり、登場人物がいて、はじめて物語は進んでいく。

じぶんひとりでは、何も形作られない。

城があるとする
それは誰が建てたのか。
じぶんが建てたものではないとすると、それを建てた他者が存在しなければならない。

道があるとする
それは今までに誰かが通ってきた証拠だ。
誰も通らなければ、道はできずに草原のままだ。

1人で生きていくとする
ではその決断をするに至るに、どのように誰と関係を持ってきたのか。
必ず他者との関係性が見えるはずだ。
そして、生きていくためには、必ず誰かと関わらなければならない。
食事、衣服、住居、どれをとってもだ。

他者との関係性の中で、自分は生きている
生かされている。
そして誰かを、生かしている

人は、死んでいくときは一人だという。
それはそうだ。自分の死は、自分自身の体に与えられるもので、他者に与えられるわけではない。
じぶんの体に与える影響が、他者に影響していては、それはもはや自分と他者を分けることができないからだ。

じぶんの物語は、そこで幕をおろす。
しかし、じぶんは誰かの関係性の中で、誰かの物語の中にいる。
生きている、というわけではない。
他者を形作る、一つの要因になっているということだ。

じぶんらしさとは

らしさを大切にするということはとても重要だ。

乱暴で攻撃的な自分。
欲に負けてしまう自分。
引っ込み思案な自分。
すぐ泣き出してしまう自分。
勉強が嫌いな自分。
怠けてしまう自分。
すぐに投げ出してしまう自分。
勝ち負けにこだわってしまう自分。
うまくひととしゃべることができない自分。

それもたしかに、”○○らしさ”だろう。
それが、例えば障害の特性からくるものであれば、なおさら、仕方のないことだろう。

しかし、最も大事にしなければならないのは、他者と互恵関係を結ぶ自分は、いかようにあるべきかということを問い続け、考え続けることだ。

じぶんひとりでは、自分自身の物語のページを埋めていくことはできない。それはどこか矛盾があるようで、決してそうではない。

じぶんというものを認識している時点で、他者とのかかわり、互恵関係を肯定しているのだから。

じぶんらしさを大切にするということは、決して自分勝手になっていいということではない

社会の中で生きていく自分、他者とのかかわりの中で生きていく上での、自分はどうあるべきかを大切にしていくことだ。

そうだ。だからこそ、わたしは”らしさ”を考えている。

その人らしく、その子らしく、という言葉に、少なからずの違和感を感じているからだ。

障がいの特性があるから、”その子らしく”あれるように、合理的配慮や、周りの理解を求め、その子が生きやすいようにしていく。

それも確かに必要なことだろう。

だけれども、同じように大事なことは、その子もその子らしく、社会の中で互恵関係を築きあげることができるように、支援をしていくことも重要だろう。

エレベーターの前に車いすの女性がいる
エレベーターは満員で、彼女はもう何回もドアが開くエレベータに乗られずにいる。

この状況に、エレベーターの人は階段を使うように、と思うだろう。
それも正しい。

車いすの彼女に、階段で降りればいいのにと考えるとは思わないだろう。
それはそうだ。

開いたドアに向かって、車いすの彼女ではない第三者が「あなたたち、降りなさいよ!!」とわめきたてる。
これは正しかろう行動だが、どうだろう。

開いたドアに向かって、車いすの彼女がずんずん進んでいき、人に車いすの車輪が当たるのも構わずに進み、エレベーターの中のひとが耐えられずに外にでて、車いすの彼女は勝ち誇ったように、当然のように階下に降りていく。
これは、おそらく正しくないだろう。

私たち、療育を考えていく支援者は、どのような人を育てていきたいのだろう。

何も言わずに、乗れるタイミングを探して待つひと。
スペースを譲ってくれた人に、「ありがとうございます」と感謝を向けて、甘んじてそれを受け入れることができるひと。
「みんな忙しいんだな。疲れているのかな。」相手の立場に立ったものの見方や考え方ができるひと。

そのような人になってほしいと望むのではないだろうか。
決して、当然のようにずかずかと進んでいくべきだとは思わないだろう。
私は少なくとも、そう考えている。

障がいの特性に応じて、その子の最大限できるところで、その子がその子らしい人生を、自分事として、他者とのかかわりの中で互恵関係を気づき、世界を自分の物語のステージとして生きていくことができるように、ダメなことはダメだと教え、他者とのかかわり方を教えていく必要がある。

だからこそ、○○らしさはだいじなのだ。
そのらしさの前につく言葉によって意味は様々だが、その○○だけでなく今後その子、○○がかかわっていく周りの他者や世界にも思いを巡らせながら、らしさ、というものを支援していきたいと思っている。


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