歴史人1月 大坂の陣12の「謎」を読んで
こんにちは。はったんです。
今回は歴史人1月号【大坂の陣12の「謎」】を紹介したいと思います。
ご存じの方も多いと思いますが、歴史人はいくつかある歴史関係の月刊誌の中の1つです。
題名からも分かるように今回は大坂の陣にまつわる12の謎が特集されていました。
その謎は以下の12個です。
今回は上記の謎のうち、謎1、謎11、謎12についての感想をまとめてみました。
謎1 徳川家康は本当に豊臣家を滅ぼそうとしたのか?
戦国最期の戦いである「大坂の陣」勃発の要因が方広寺鐘銘事件であるということは良く耳にします。
方広寺鐘銘事件・・・豊臣秀頼が再建した方広寺の梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の2句が書いてあった。これを徳川型は「家康」の文字を分断し「豊臣」のみ君主として楽しむという呪詛であると捉え、大坂の陣に発展していく。
実際にその部分だけを見ると家康は豊臣家が幕府に牙をむくのを恐れ、
鐘に刻まれた文字にいちゃもんをつけることで、豊臣家討伐に踏み切ったと見て取れます。
しかし、家康は方広寺鐘銘事件前後に、豊臣家との共存を望んでいたかのように思える行動を2つ取っています。
1つ目は、家康が征夷大将軍に就任した直後、秀忠の娘:千姫を秀頼に嫁がせていることです。
この縁組みは秀吉の遺言でもありましたが、秀頼11歳、千姫に至っては僅か7歳に過ぎませんでした。
個人的にはいくら秀吉の遺言としても早すぎる気がします。
また、家康が征夷大将軍に就任した直後に婚姻が結ばれたことから、豊臣家と協調する意志があったようにも思えます。
2つ目は、方広寺鐘銘事件後に和平交渉を持ちかけていたことです。
家康は方広寺鐘銘事件勃発後すぐに豊臣討伐の軍をあげるわけではなく、3つの条件付きの和平案を提示しています。
その3つの条件は下記の通りです。
・秀頼が江戸へ参勤
・淀殿を人質として江戸に送る
・秀頼が大阪城より退去、国替えすること
豊臣側が上記3つの条件のうち1つでものめば、家康も豊臣家を滅ぼすつもりはなかったと言われています。
しかし、淀殿は3つの条件をのむことはなく、豊臣家は滅亡の一歩をたどってしまうのです。
一方で、家康が豊臣家に脅威を感じていたのも事実です。
家康は征夷大将軍に就任し、僅か2年で秀忠に将軍職を譲っています。
短期間での将軍職譲渡は、政権を維持していくのは徳川であり、豊臣に戻すつもりはないといった強い意志を感じます。
また、家康は1611年に後水尾天皇の即位に際し上洛し、秀頼と二条城で会見を行っていますが、この会見の3年後に方広寺鐘銘事件が起きました。
家康は秀頼と直接会った際、彼の成長ぶりに脅威を感じたのかもしれません。
実際、二条城会見の日、豊臣恩顧の大名である加藤清正と浅野幸長が秀頼の護衛役を務めています。いくら家康といえども、加藤清正、福島正則といった豊臣恩顧の大名が豊臣側に付いたとなると骨がおれるでしょう。
※関ヶ原の合戦で手柄をあげた多くの大名が豊臣恩顧の大名であった。
私は、家康は豊臣の力を大幅にそぐことで、豊臣との共存を本気で望んでいたのだと思います。
そうでなければ、豊臣家を滅ぼす千載一隅のチャンスに和平交渉を持ちかけることはないでしょう。
残念ながら、豊臣のプライドがそれをよしとせず、家康の願いは叶いませんでした。
謎11 豊臣秀頼と真田幸村は実は生きていた?
大坂夏の陣で家康をあと一歩のところまで追い詰めた真田幸村は、現代のみならず当時も人気だったみたいで、京では彼や秀頼の生存を信じるわらべ歌がはやるほどでした。
実際に、幸村に関しては首見分に彼の叔父である真田信伊が立ち会ったが、「死に顔のためよく分からない。」と発言しており、秀頼に関しても、最期自害した櫓では黒焦げの遺体が幾つもあり判別がつかなかったと事実として記載されているようです。
さらに、旧真田丸や幸村が討ち取られた安居天神の近くには大坂城から続くとされる抜け道があったとされ、実際に抜け道跡も発見されています。
このような状況から、幸村・秀頼の生存説が噂となって広まっていったようです。
そんな2人の生存説に関してですが、単なる噂話ではなく説を裏付けるような記述や伝承が数多く残っています。
その1つに平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの日記があります。
コックスは「秀頼らは薩摩、あるいは琉球に逃れたという報がある。」「秀頼は重臣5,6名と薩摩にいるだろう。」と日記に残しています。
当時でもこのような記述が残っていると言うことは、やはり遺体を特定することができていなかったのだと思います。
実際に、鹿児島県には幸村と秀頼のものとされる墓が残されており、「谷山犬の食い逃げ」という秀頼が元となった逸話まで残っています。
もし、秀頼と幸村が薩摩まで無事逃げ延び、その子孫が薩摩藩士として明治維新を成し遂げたと思うと、非常に感慨深いですね。
※真田幸村に関しては東北方面や香川県に逃げ延びたという逸話があり、秋田県や宮城県には、幸村のものとされる墓も残っています。
謎12 徳川家康は大坂の陣で討ち取られていたのか?
大坂夏の陣:天王寺の戦いにおいて、真田幸村は「狙うは家康の首のみ」と裸同然となった家康の本陣に突撃。家康に死を覚悟させるほどの奮闘ぶりを見せるも失敗し安居天神境内で討ち取られたというのが通説です。
しかし、その通説を覆しかねないものが大坂の南宗寺に残っています。
それは家康が埋葬されたとされる記録と墓です。
南宗寺の寺歴を記した「大坂府全志」の中に、
幸村が摂津・河内の平野焼打ちを行ったため家康は数名の家臣と共に輿にのって逃げており、逃走の最中に遭遇した後藤又兵衛の槍によって討たれた
という記述が残っています。
実際に、南宗寺には家康の死を隠蔽するために仮に埋葬された無銘塔が残っており、当時家康が乗っていたとされる輿「網代駕籠(あじろかご)」には屋根と輿辺り部分の2カ所に槍が貫通したと思われる穴が空いているそうです。
また、家康がなくなったとされる元和2年4月以降には正式に家康の墓が建てられ、徳川2代将軍秀忠、3代将軍家光が南宗寺に詣でた記録も残っています。
現在南宗寺にある家康の墓には「東照宮 徳川家康墓」と記載されており、その背景には徳川家の家紋である葵紋の瓦をのせた兵が建ています。
一方で、南宗寺に家康が運ばれてきた日にちが大坂夏の陣の前であることや、道明寺の戦いで自害もしくは討死したはずの後藤又兵衛が家康を討ち取ったとされているなど、時期的・時間的な観点から見ても怪しい部分もあります。
※家康死亡説を唱える学者は、日時の違いを単なる間違いと見ている用です。
上記の内容から考えると、やはり家康は大坂の陣周辺に何らかの形で討たれていたのではと思います。
そうでなければ、将軍である秀忠や家光がわざわざ大坂まで足を運び、数ある寺の中から縁もゆかりもない南宗寺を選んで参拝をしないはずです。
家康には影武者がいたと言う話も度々耳にしますし、大坂夏の陣前後で家康と影武者が入れ替わっていたとしても不思議ではありませんよね。
おわりに
歴史人1月はご紹介した3つの謎の他にも、興味深い謎がいくつもありました。
謎2の『豊臣恩顧の大名謎の死の真相』はミステリーっぽい内容に興味がそそられましたし、謎7の『なぜ「真田丸」は善戦できたのか?』、謎10の『「豊臣大坂城」と「徳川大坂城」の秘密』では、今まで知らなかった真田丸や大坂城に関する正しい知識を得ることができました。
また、読み進めていく途中で、謎と謎が繋がる場面もいくつかありました。
例えば、今回ご紹介した謎12と謎11です。
もし本当に大坂夏の陣周辺で徳川家康が討ち取られていたのなら、徳川軍に動揺が走り、幸村や秀頼が脱出できる隙が生まれたかもしれません。
私は歴史小説が面白くてよく読んでいるのですが、歴史人のような真実に一歩近づけるような本を読むことも大切ですね。
皆さんもぜひ「歴史人」を読んでみてください。
最期まで読んでいただきありがとうございました。
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