たばこ 真冬のすぱー

実家禁煙生活は5時間で終わった。わたしは帰省すれば禁煙できると思っていた。ひとり暮らしは自由すぎてすぐたばこを吸ってしまうから喫煙者が誰もおらず、そこはかとなく喫煙に風当たりの厳しい実家にいれば自ずと禁煙できると思っていた。甘かった。全然禁煙できない。理由はいくつがありそうだけど、大きな理由はひとつ家族が夜中まで起きていることだ。この日記を書いている現在0時40分で未だに家族全員起きているのだ。わたしはいつもは22時に睡眠薬を飲んで0時から1時にかけて寝る。でもわたしの部屋の隣、薄いドアを隔てた先には未だにテレビの音が鳴り、家族の笑い声が聞こえる。寝れない。わたしは完全に無音に近くないと寝れないので、これはつらい。実家に帰ると家族はわたしのことを寝過ぎだというが、あなたたちがずっと起きているからだよ!!って言いたい。家族のみんなは夜中まで起きて、すぐに眠れる人たちばかりだけど、わたしは寝るのに時間がかかるので、結果誰よりも遅くまで起きていることになる。音うっさ&寝れないでわたしのストレス値はぐんぐん加速し、たばこ!!吸おう!!となったのである。これは自分を守るためのたばこ……かなしいたばこである。たばこは嗜好品であり、楽しむためのものである。わたしは喫煙者になってからこれまで一度もたばこを楽しくないと思ったことがない。たばこを吸っている時間は楽しいものであり、他人にはただのくさい煙かもしれないが、豊かな時間を過ごしている。しかし……このたばこはかなしい。そんなたばこをやめようと思ったのは主に健康のためであったし、結構覚悟してやめようと決心していたけど無理だった。二重にかなしい。あと壁とドアが薄いので通話するのにめっちゃ気を遣うのもストレスだった。

書いているとだんだん悲しくなってきたのでショーン・ベイカー監督の『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』の話をしようと思う。同監督の『レッド・ロケット』を見たときも思ったのだけど、わたしはこの監督の映画をあまり好きではなかった。『レッド・ロケット』は笑えると聞いていたけれどあまり笑えなかったし、物語も面白いと感じなかった。しかし、『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』を見たとき強く感じたのが、ああ、この監督は社会からあぶれた人々をそのまま描きたいのかなと思った。両作とも主人公たちは成長しないし、はみ出しものである。物語の主人公には成長が本来なら必要だ。すべての物語はビルドゥングス・ロマンであるべきだと言いたいのではなく、物語は物語という構造を取っている以上、かなりの割合でビルドゥングス・ロマンになり得るということが言いたいのだ。物語を書けばわかると思うけど、物語の主人公たちが全く成長しないというのはかなり意図的に作らねばそうはならない。物語は成長を要請する。それをあえて避けた作品を撮るショーン・ベイカーはそういう戦略を撮っているとわたしは思う。魔法みたいなオチを『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』も『レッド・ロケット』も採用しているし、主人公たちはぶっ飛んだ人ばかりで変わり者なのに、妙にリアリティがあり、生々しいのには理由がある。それは人生は、人とは物語ではないということだ。わたしたちは同じ失敗を何度も繰り返さないだろうか?わたしたちは同じトラウマからいつだって脱却できた試しはないのではないか?人生を物語化しようとするとどうしたって嘘くさくなる。成長と言えるものだって、なんとなく習慣化するにつれて平気になったとか、ある日突然なんともなくなったとか、そんなことばかりだ。人生に意味はない、理由もない。ただそうなったからそうであるという偶然性と環境という不確かなものの間にあるのが人間だ。だからこそショーン・ベイカーはそうした不確かで物語化されないキャラクターを描く。わたしにはそう見える。そして、変わり者とは当たり前の人間であるという実に面白くもなんともない事実を淡々と描くショーン・ベイカーの映画をわたしはどうにも嫌いになれない。




あと実に美味しそうにショーン・ベイカーの映画の登場人物たちはたばこを吸う……素晴らしい。

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