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#2 愛に対する渇望感は何を教えてくれるのか【愛されたいと思ったらこれを貫き通す】



「わたしは愛してもいなかったし、愛されてもいなかった」



ということに気づいた時がありました。その時は、想像していたのとは違って、ずいぶんと肩の荷が下りたような気がしました。


両親からも。パートナーからも。そして友人からも。


絶望的な感じではなく、


「わたしが勝手に愛だと思っていたものは愛ではなかったし、人はいつも自分のことしか考えていないのだ(わたしを含め)」


ということを受け入れた時、とてもとても気が楽になったのを覚えています。


「わたしが欲しかった形の愛は与えられないし、わたしが与えている愛だと思っていることも愛じゃない」


この気づきは、そりゃもう、快晴の日にひとっ走りした後の爽快感。


みんなこういう風に思えばいいということではなく、少なくともそういう風にストンと思えた時に、わたしは愛から解放されたような気がしました。



与えられないものを人に求めること、与えることができないのものを自分の中から見いだすこと、それをしなくていいんだという気持ちになって、とってもスッキリしたのです。


愛せないし、愛されていないし、愛してもいないし、愛だと思っていたものは幻。


楽しめないなら、見るのはやめよう、と思ったんです。映画みたいに。楽しめなくなったら途中で見るのやめよう、と。



実際にそのあとの方が、

他者からの愛(それもその人独自の形)や、自分自身の愛(これまた独自の形)に気づけるようになって、結局は愛してもいるし愛されてもいる、ということを実感することが増えたのですが、執着はもう、ない。


どっちも、どうぞ、ご自由に・・・と。好きなように愛して好きなように愛されて、必要としないときは受け取らず、必要なときはありがたく食べる。

自由になったんです。



波のように消えて、また波のように生まれ、それが続いているだけだから・・・形もすぐに変化する。


愛は幻でもあるし、リアルでもあるんだって感じるようになったんです。


今日、愛していると思っていたことでも、明日とたんに消えてしまうこともある。それこそがリアルで、愛は永遠に同じ形で続いていくという幻に囚われることがなくなったのです。




愛されようする目的は、”愛されていると実感すること”ではなく、その実感の先にある「もう、愛について悩まなくてもいいんだ」という根本的解放だとわたしは思うのです。


そうやってこの記事に書きました。


「もう、愛について悩まなくてもいいんだ」って心の底から思ったとき。わたしは愛から自由になった。(不思議なんですが、その直後から真剣に結婚したくなりました。笑 この話はまたいつか)



ただ、ここに至ったのは

愛に真剣に執着してみた

からだと、考えています。


愛されたい
愛が欲しい
愛されている実感が欲しい
愛されているという証拠が欲しい


この気持ちに一切の蓋をすることをやめ、この気持ちに対する一切の罪悪感を捨て、これらに関するあらゆる知識や正論を一旦、すべて忘れることにしました。


読んだ恋愛の本も
書いた恋愛の本も(笑
説いてきた愛することに関する話も


すべて、葬って。


わたしは、頭の先から足の先まですべてが「愛されたい」人間になりました。


今日は、その経験などを通して”愛からの解脱シリーズ第2弾”をお届けします。


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愛されたい
愛が欲しい
愛されている実感が欲しい
愛されているという証拠が欲しい


愛に対する渇望は、実に様々な形に変化して自分の理想や欲求をややこしくします。

愛されたいから

じゃあ、もっと美しくならなきゃ!

このシミをなんとかしなきゃ!

となることもあれば

愛されている実感が欲しい

愛されているなら返信はきっと早いはずだ!

返信がこない・・・愛されていいないの?


となることなんて、かなりの頻度で全国各地にて多発していますネ!


愛されている証拠が欲しい

愛されていない人として振る舞い続けたらどうかしら?

愛なんて絶対に受け取らない!


という

”ややこすぃバージョン”

になることも、ありますね。


愛への渇望は実にいろんな形になってわたしたちの人生を、時に強烈に突き動かし、時に暗い部屋の中に閉じ込めもします。

でも人間が経験する様々なドラマには、愛が必ず絡んでいる・・・


だから、愛を歌った音楽もなくならないし、愛をテーマにしたドラマも映画もなくなりはしないですよね。

素敵じゃないですか、画面上やデバイス上なら。人ごとは美しくさえ思える。


でも自分というハコの中で起きる愛の問題は、


痛く
窮屈で
暗くて
絶望的で
それでいて甘美的・・・

人は、愛が生み出すそんなカオスさに耐えられなくて、簡単で刺激的なものへ逃避しまうのでしょう。

仕事に没入してみたり、
いっときの快楽だったり
お金だったり。


でも、どっかでまた、直面するわけです。そして、逃れられないタイミングがくると思うのです。


「わたしは愛に飢えている」を突きつけられるタイミングが。



愛されている実感が欲しいことや、愛されているという証拠が欲しいという気持ちを、邪険に扱うつもりはありません。


そんなものは必要ない!とぶった切るつもりもないし、むしろ逆です。

今思うと、「わたしは愛に飢えている」という実感そして愛を渇望していたり、愛を喪失して悲しんでいる自分がいるということを、何度も何度も確認させられました。


どうしろって言うのよ!


わたしは幾度も叫びました。
心の中で叫びました。



愛されることを渇望する自分に対して、どうやって接していいかわからない自分が、その度に混乱し、その度に恨み、そして逃げたくなりました。


途中からもう、逃げるのをやめて(疲れたとも言う)

開き直っていきました。


めちゃめちゃ飢えてますし
めちゃめちゃ欲しいですし
めちゃめちゃ喪失感があるので

わたしは全人生を賭けてでも
愛されたいと思っていますけど、何か問題でもありますか?


開き直った時、わたしの心で誰かが微笑みました。


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愛されている実感も、
愛されている証拠も、


他者から欲しがって、与えてもらえたりもらえなかったりと不安定になって、飢えたり漕がれたりすり減ったりして

そんなプロセスを通ることではじめて、全く別の”愛されている実感”に到達するものだと思っています。


”最も”してはいけないこと、と大げさにいうならば、愛に対する渇望に目を背けることなのではないでしょうか。(特に、心のお勉強や恋愛のお勉強をし過ぎてしまった人ほど。)


「他者からの愛を求めるなんて!わたしはまずわたしを愛さなければならないの」


腐るほど聞いてきました。
そのたびに、また心がチクチクとするのです。


まぁ、ごもっともな正論ですし、わたしも理論としては伝えるのですが、この知識は道を見失わないためのナビでしかなく、現実的に歩む道そのものではないんです。


そうでなければならないのではなく、

愛から解放された時あなたは、あなたをまず愛せているんですよ

というゴールの話なのです。



ヴィジョンなのです、ゴールなのです、それらは”正解”ではないのです。

迷った時はそこに戻る、でもその道を正しく歩まなければならないわけではない。



だからまず、「わたしは他者からの愛が欲しいし必要としているし、愛されている証拠が欲しい」と、少しの罪悪感もなく思うことって、大切なプロセスなんです。


「愛されているかどうかなんて、気にする必要はない!そんなの他者に振り回されるだけだ」


これも、ごもっともな正論ですし、そして理論としては正解です。


しかし、正解しても先に進めないのが愛の道だとしたら、やはりこれも一つのナビゲーションだとして、必要な時だけ取り出す。



矛盾しているように聞こえるかもしれないですが、愛から解放されるためには、まず心の底から愛を渇望することが大切になってくるのです。


欲しいなら欲しいと。
与えられたいなら与えられたいと。



目を背けずに、不足感の奥まで見透かすくらい堂々と、そして潔く。


心の目で、愛の渇望が見えるようになったとき、それは自分に色々な真実をようやく見せてくれます。


これは違うんだ
この人は違うんだ
これは嫌なんだ
これは受け取りたくないんだ

言えなかった言葉も
嫌だったのに飲み込んでしまった過去も

浮き彫りになって
涙と一緒に流れていきます。

「かっこつけなくていいのよ」

また、誰かがわたしの心の奥で微笑むのでした。



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愛を憎み、愛に傷つき、愛を喪失し、そして愛を渇望している、という自分の心の穴のようなものに対して目を背けてしまうこと。これは誰もが経験します。

そして、目を背けていると、周りの現実は代わりに鏡となってくれる。気づいて欲しい心の奥が、それを見つける。

例えば、特定の人に対する、特定の憎悪。

その人を見ていると、あるいは思い出すと、そしてその人と関わっていると、傷がうずくのです。


愛されていない人間

という自分の心の穴を、見せつけられるのです。自分は大して必要とされていない存在という風に思わせられるのです。だから、離れたくなる、近づきたくない、嫌悪感を感じる。


いいじゃないですか!

そういった感情を他者に抱くのは、誰にとっても自由。


しかし残念なことに(?)


どうやら恋愛やパートナーシップというのは、どこかあえてそういった人を選んでしまうという傾向が強いようなのです(あくまでも当社比)

封じ込めてきた愛に対する渇望を刺激してくる人を好きになったり、恋人となったり、パートナーにしたり。



愛の飢えを強烈に感じさせられる・・・そんな恋愛をしたことがある人は、もう無視ができないというところまで、自分の心に素直になることを人生から要求させられるかのように。

不幸せな恋愛だと感じていながらも続けてしまうのは、そこに真実の愛はないと心の奥で知っているからです。


そこには愛の飢えがあるのです。心の穴があるのです。その飢え、渇望感、そして穴を、見ようとしている。でも怖い、でも見ようとしている。


不幸な恋愛なのにやめられない時、人は自分の渇望感に”生”をどこか感じてしまうのでしょう。


それもまたひとつの、生きかた。




わたしはそれもまた、肯定した上で、ただそれはプロセスの一つでしかなく、最終ゴールではないということを言い続けたいと思っています。


愛されようする目的は、”愛されていると実感すること”ではなく、その実感の先にある「もう、愛について悩まなくてもいいんだ」という根本的解放だ。


泥中にいると、とてもしんどいでしょう。でも、泥中にいるときこそ、愛される方法とか異性に持てるテクニックとか、男性が(女性が)好きなタイプはこういう人、とかそういうのを脇に置いて


今、自分は愛に飢えている心を直視させられているのかもしれない


それだけで、まずはいい。


これは泥中にいる時に、今までとは違う扉を開いてくれます。




最後にこれだけ、覚えておいて欲しい。


誰の中にもそれをまっすぐに見る、強さがある、と。


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