小学生の思い出①
みなさん、こんにちは。
昭和50年代(1970年代)、私は小学生でした。
今の私をつくっている、この感じも、当時の出来事を土台にしています。
当時のことを振り返ってみることにしました。
今とずいぶん違うところがあります。また、変わらないこともあります。
30年前・・・ちょっと前?
今振り返ると、当時は戦後30年。今の自分の感覚なら、ちょっと前って感じですね。当時は、戦争のことなんて考えることはあまりなかったです。それぐらい物も溢れ、どの家庭も中流意識を持っていたと思います。
同居内別居の父の話
でもですね。高度経済成長の時代。
父は金属プレス工場で働いていたのですが、それはそれは忙しい毎日でした。朝は、6:00頃家を出て、夜は22:00、23:00は当たり前。
日付を越えることもあったようです。
また、当時はお休みは日曜日だけですから、土曜日もフルタイムです。
っていうと、私は小学校1年生。
もう、父の顔を見ることがあまりないわけですよ。
朝起きたら、もういない。
夜は寝た後に帰ってくる。
同居の親なのに、顔を知らないみたいな。
同居内別居(?)みたいな・・・。
なので、それを心配したんでしょうね。母が言い出したのか、私が書きたいといったのかは覚えていないんですが、父と交換日記をしてました。
遠い記憶で、その日記の現物もないのですが、
「おとうさん、おつかれさま。きょう、ばあちゃんと はたけに みかんをとりにいったよ。おやすみなさい。」
みたいなことを、書いていたようでした。
で、次の日その返事を見るのを楽しみにしていました。
たまの日曜日、父はゆっくり休むかというと、そうではないんです。
家で食べる分だけですが、米とミカンを作っていたんです。それの作業をするわけです。
耕運機で、田んぼを耕す。田植えをする(手作業で手伝わされました)。
秋は稲刈り(これも手作業です)。脱穀をした後のわらを積んで、落とし穴をよくつくって兄と遊びました・・・。
とにかく、休みがない。
ということは、ほとんどどこにも連れて行ってもらえなかったんです。
なので、一度家族で行った、菊池水源の水遊びが本当にいい思い出として残っています。
ただ、父はカッコよかったですね!
ふかしたばこをしながら、耕運機を力強く操る父は偉大に見えました。
現代とは少し違う、父像ですよね?!
そんな、忙しい父が亡くなってから15年ほど経ちました。
寡黙な父でしたが、今でも尊敬しています。
父のように、力強く家族を守れる”父”になりたいですね。
まだまだ発展途上です。
伝えたいこと
そんな私の小学校時代。
私の家族、遊び、友だち、学校での出来事などを伝えて、
”昭和”のいいところが伝わればいいな。
そして”令和”の時代に、何かしらのヒントになればいいな・・・
(ならないかもしれないけど)と思っています。
最後までお読みくださりありがとうございました。
もうすぐ夏休みです。
コロナの状況が変わってきましたが、何か計画は立てましたか?
私は・・・、検討中です。
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