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【印象派と芸術の都】ナポレオン3世とマネの出会い


世界中の名画が集まるルーブル美術館。ルーブルは模写に来た画家同士の交流の場でもあった。エドゥアール・マネもその一人。(筆者撮影/2023年)



ナポレオン3世とマネ

 1808年、フランス皇帝ナポレオン1世の甥にあたるルイ=ナポレオン、のちのナポレオン3世が生まれた。その約四半世紀後にあたる1832年、印象派の先駆者として知られる画家・エドゥアール・マネが生まれた。二人はそれぞれ1873年, 1883年に没するまで19世紀のパリを生きたが、この時代はパリが近代都市として発展を遂げる上で非常に重要な時代であった。1900年に開かれたパリ万博が近代都市・パリの完成を高らかに宣言し、現代にも続く「芸術の都・パリ」のイメージを規定する歴史的イベントであったことを踏まえると、それまでの19世紀はまさにパリが近代芸術都市として作られた世紀と言えるだろう。
 そんな19世紀のパリをともに生きたナポレオン3世とマネだが、二人の関わり合いについては1863年の落選者展での出来事がよく知られている。フランスでは長く、サロン(官展)が芸術家の活躍の場となってきたが、19世紀にはその審査があまりに保守的であることが問題化していた。二月革命を経て一度は是正が試みられたものの、ナポレオン3世が政権を獲得するとサロンの審査基準は再び保守的傾向に回帰し、1863年のサロンでは5000点の応募に対し3000点が落選させられる事態となった。これに対する芸術家たちの反動は特に激しく、ナポレオン3世は対応として、サロン落選者の作品を集めた落選者展の開催を助言した。こうして開催されたのが1863年の落選者展である。当時、すでにサロンの入賞経験も得ていたエドゥアール・マネはこの落選者展に『草上の昼食(改題前は『水浴』)』を出展、本作はルネサンス期の巨匠の作品を引用しながら絵画の二次元性を追求した自信作だった。しかし、裸体の女性と着衣の男性を日常的情景のもとに一緒に描いたことでこの作品は大きなスキャンダルとなり、落選者展を企画した当のナポレオン3世からも貶される結果となった。

マネ『草上の昼食』 Le déjeuner sur l'herbe (863). Oil on canvas, 208 × 264.5 cm (81.9 × 104.1 in). Musée d'Orsay, Paris. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%C3%89douard_Manet_-_Le_D%C3%A9jeuner_sur_l%27herbe.jpg  Édouard Manet, Public domain, via Wikimedia Commonsvia Wikimedia Commons

 この1863年の落選展での出来事は、保守的な鑑賞者としてのナポレオン3世と先進的な芸術家としてのマネを象徴するようなエピソードである。しかし、19世紀のパリを生きたナポレオン3世とマネの結びつきとは、果たしてそれだけなのだろうか。本稿では、直接的な二人の関わり合いというよりも、二人が与えた影響という観点から、二人の結びつきを通時的視野で考察していきたい。


マネと印象派

 『草上の昼食』でスキャンダルを巻き起こしたマネだったが、当人はあくまでも保守的な上層ブルジョワジー出身で、世間的な成功や賞賛を欲していた。しかし、1863年の『草上の昼食』に続き、1865年にはサロン出品作『オランピア』で再び世間の批判と嘲笑を浴びた。当時のパリの高級娼婦を連想させるヌード画は、高貴で理想的な絵画という伝統的な規範を崩す「いかがわしい」作品だったのだ。

マネ『オランピア』 Olympia (1863). Oil on canvas, 130.5 × 190 cm (51.4 × 74.8 in). Musée d'Orsay, Paris. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Manet,_Edouard_-_Olympia,_1863.jpg  Édouard Manet, Public domain, via Wikimedia Commons

 ところが、こうしたマネの試みは印象派など若い前衛的な芸術家たちからの崇拝を喚起した。マネは歴史画や古典的な題材をモチーフに引用しながら「パリの現代」を二次元的なタッチで描いたが、この題材の選定や描き方は西洋絵画の歴史において革新性を帯びていたのだ。マネの芸術作品は、ベラスケスの影響を受けた強い筆致で二次元性を指向し、これまでの新古典主義的な堅苦しい西洋絵画の伝統を否定するとともに、神話や古典の名場面ではなくあくまでも現代のパリを見つめていた。
 こうしたマネの革新性はモネやルノワールなど印象派の画家に受け継がれていった。印象派の画家たちは同時代のパリの風景を好んで描いたほか、マネの影響で明度の高い色彩や生気のこもった筆致を採用した。マネ自身はサロンという伝統に拘泥し印象派として扱われることを忌避したが、印象派の画家たちはマネの影響を多分に受けており、マネの絵画が印象派にとって先駆的なモデルとなったことは否定できない。


ナポレオン3世とパリ大改造

 他方、ナポレオン3世はパリを変革する必要性を前にしていた。19世紀のパリでは、1830年代から始まったフランスの産業革命とそれに伴う人口急増を受け中世以来の非衛生的な都市構造の問題が顕在化していた。第二帝政を開始したナポレオン3世は、パリの抱えるこうした問題を克服するため、整然としたロンドンを一つのモデルとしてパリの大改造を企図し、計画の中心人物としてジョルジュ・オスマンをセーヌ県知事に任命した。大改造を指揮することになったオスマンは上下水道や公園の整備を進めたほか、道路の拡幅や直線化、斜交街路の造成を柱に街路整備を展開した。さらに、改造に際して「超過収用」と呼ばれる手法を導入し、新しい街路や公共建築物のために土地を収用、統一感のある美観を形成してパリを近代都市に変革した。ナポレオン3世の治世下で行われたこのパリ大改造により、パリは近代都市たる所以を獲得したのである。

現代にも続くパリの風景はこの時形作られた。写真は凱旋門とそこから放射状に伸びる直線的な道路網。整然とした街並みは、革命につきものだったバリゲードによる都市ゲリラ戦を困難にするという意図もあった。
 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paris_Arc_de_Triomphe_3b40740.jpg Photographer : Alphonse Liébert (1827–1913), Public domain, via Wikimedia Commons


パリ大改造と印象派

 印象派の画家たちは、ナポレオン3世の治世下で大きな変革を遂げたパリの新しい都市空間とそこでの新しい生活に素早く反応した。マネの『草上の昼食』の題材も現代のパリであるが、初期のモネやルノワールの題材もパリの橋や街路、公園などであり、これらはパリ大改造によって作られた新しい都市空間であった。特にこの改造により誕生した街路や公園、オペラ座は新しいパリの象徴となり、印象派画家のモチーフはオペラ座からルーブル美術館、そしてモンマルトル界隈まで及んだ。印象派の画家たちは都市改造で生まれ変わった「新しいパリ」にインスパイアされ、新しい都市の空間とその中の人々の生活を描いたのである。
 印象派の特徴は戸外制作、すなわち外の風景を戸外で描くことだが、改造を終えて近代都市に生まれ変わったパリの風景はまさにその優良な題材となった。パリ大改造は道路の拡張や公園の整備によって光の差し込む開放的な空間を提供したが、この改造なくして印象派の描く光や大気の表現、広場に集まる人々の動きの描出はあり得なかっただろう。したがって、パリの大改造もまたマネの革新性と同様に、印象派の登場を規定づける重要な条件だったと言える。

オルセー美術館から望むモンマルトル方面。手前はルーブル宮。(筆者撮影/2023年)


例:『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(ルノワール)

ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』 Dance at Le Moulin de la Galette (1876). Oil on canvas, 131 × 175 cm (52 × 69 in). Musée d'Orsay, Paris.  https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pierre-Auguste_Renoir,_Le_Moulin_de_la_Galette.jpg  Pierre-Auguste Renoir, Public domain, via Wikimedia Commons 

 パリの大改造と印象派のつながりを示す一例としてルノワールによる『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』が挙げられる。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』はモンマルトルの丘にあった労働者階級の集う大衆酒場で、ここはナポレオン3世治世下のパリ大改造で城壁が取り壊されるまでパリの市外地区であった。すなわち、この場所はパリ大改造を経て生まれた新しい庶民的な空間と言えよう。ルノワールはそうして出来た近代パリの庶民の社交場を明るく賑やかに表現してみせた。
 なお、この作品も印象派の特徴である戸外制作の性質を持つ。本作品には小型のものと大型のものと二つあり、ルノワールは小型のカンヴァスを現地に持っていって戸外制作し、アトリエに戻って大型のカンヴァスを制作したと考えられている。


結論

 以上の考察を踏まえると、マネが切り開いた新しい芸術世界と、ナポレオン3世の作り上げた新しいパリの都市性が印象派という新しい芸術表現の登場を可能にしたと言えよう。マネのもたらしたテーマや筆致、色彩における革新は印象派の絵画に大きく影響を与え、ナポレオン3世期のパリ大改造は印象派が好んで題材とするような近代的な都市空間を創出したのである。
 こうした過程こそが、パリを新たな芸術の源泉たらしめた。すなわち、ナポレオン3世の大改造とマネに由来する印象派の革新性が交わり、印象派がパリを芸術の源泉としていくことで19世紀のパリは「芸術の都」の地位を築いていったのだ。ナポレオン3世とマネがこうして「出会った」とき、近代芸術都市パリが誕生したと言えるだろう。


参考文献
※インターネットリソースはすべて2024/2/2に最終閲覧

  • 三浦 篤 2018. 『エドゥアール・マネ : 西洋絵画史の革命』KADOKAWA.

  • 三宅 博史 2021. オスマンのパリ大改造(一般社団法人大都市政策研究機構). https://imp.or.jp/wp-content/uploads/2021/10/special-1.pdf 

  • 井口 俊 2015. 1863年の「スキャンダル」 : エドゥアール・マネ《草上の昼食》と落選者のサロン. Résonances : レゾナンス : 東京大学大学院総合文化研究科フランス語系学生論文集 9: 9-17.

  • 木村 泰司 2018. 『印象派という革命』筑摩書房.

  • 東京大学附属図書館 2003. 1900年パリ万博と日本人留学生(東京大学附属図書館 特別展示会). https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2003/tenji/index-i.html 

  • 1972. 『世界大百科事典』平凡社.

  • MIYU TAKAHASHI 2017. 19 世紀のパリ近代化と芸術都市の創造. https://pweb.cc.sophia.ac.jp/hsawada/conseils/sotsuronTakahashi.pdf 

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