【#創作大賞2024】母について
「ナースの卯月に視えるもの」があまりにも私の感情を揺さぶるので、昨日は真面目モード全開で感想を書いてしまいました。
しか~し、母の紹介を感動のままで終わらせていいのか、私は脱力系noterではなかったかと急に気になりだしました。
そこで私は妄想内に妹を出演させます。脱力系noterが真面目な記事だけでいいのかなんて電話してきたら妹が驚くと思ったからです。心の中の妹は、
さすが私の妹(私の勝手な妄想)です!やはり脱力系記事を書いてナンボがはそやmですよね。
ということで、本日は脱力モードで母の紹介をしたいと思います。過去に描いたイラストを使用し母について語らせてください。
1.母はこんな人①
noteで母を描く時は必ず
なぜモンチッチかというと美容院で勝手に髪を短くされモンチッチそっくりな髪型になったことがあったからです。帰ってきた母を見て妹と私は爆笑してしまいました。
娘達に笑われてようやく似合わない髪型にされたと母は気づきます。美容師さんが「すごくお似合いです!」とやたら絶賛するので、
「似合う……?」
と無理に自分を言い聞かせ帰ってきたのだとか。それを聞いて更に私達は爆笑。モンチッチは母が好む女性らしい洋服から、かなり浮いた髪型でした。
大笑いした後、妹が尋ねます。
「美容院に文句言った?」
「言えるわけないじゃない」
と答える母に妹は激怒しました。妹は、その美容院で前髪をものすごく短くされた経験から、他の店にカットしてもらうようになっていたのです。
「もうあの店には行っちゃダメ!」
妹はそう言い続けましたが、母は店を変えませんでした。酷い方向音痴で、決まった店にしか通えなかったからです。
家に帰って「モンチッチ」と揶揄されたことを美容院に伝えたためでしょうか。それ以降はモンチッチヘアにはならず、いつものフワっとしたボブを母は維持し続けました。でもモンチッチ姿の印象はかなり深く残り、私の中で母=モンチッチとなったのです。
2.母はこんな人②
父・母・祖母は呑みませんが、私達姉妹は親戚の家で酒を覚えました。当時は、お酒の飲めるお客様が来ると昼夜関係なく、ビールでおもてなしをする傾向にありました。しかし、我が家はノンアルコール一家のため、お酒を飲まれる来客がある時だけビール瓶を用意します。
ある日のこと、お客様にビールを提供しようとすると、栓抜きがいつもの場所になく大騒ぎとなりました。いくら探してもないのにイラついた祖母は、
幼心にこの記憶はかなりの衝撃を残しています。こんな猛女な祖母が姑だったため、母はいつも、
家族で潮干狩りに行った時も、決まった量以上のあさりを持って帰りたい祖母が悪知恵を駆使します。あさりの入ったビニール袋を長靴に隠し、自分と嫁に持たせ、
と母に命令します。こういったことを恥ずかしく感じるのに絶対に反論はしません。母は、祖母に言わずに長女の私にこっそりと自分の苦労を愚痴るのです。私も若かったし、意思はしっかりと伝えないといけない派でもあるので、
「文句ではなく自分の考えを伝えるべきだと思う!」
とつい反論してしまいます。でも、母は私に意見ではなく「寄り添うこと」を求めているのです。そのため「あなたにはおばあちゃんの怖さがわからない!」とプンプンしてしまいます。でも、プンプンした後、愚痴は再開。しばらく右から左に母の愚痴を聞き流すのですが最後は必ず、
「でもね、おばあちゃんは根は悪い人じゃないし、対応できるのは私だけなのよ。ほら、私って心が広いでしょ?パパもそこが好きになったんだから」
と締めくくって終了。全てのことを自分の好きなように解釈できる母でした。祖母と上手く付き合えたのは確かに母だけだったと私も思います。
3.母はこんな人③
祖母は孫娘を溺愛しており、独特な美意識で愛でていたところがありました。息子しか持たなかったため、余計にそうだったのでしょう。
孫の世話したさで母に働くことを強くすすめたため、母は定年まで会社勤めをします。子育てを自由にしたかったと文句は言っていましたが、定年まで働けたのは良かったと晩年は祖母に感謝していました。
方向音痴なため決まった道しか歩けず帰りに寄り道ができないので、見かねた伯母がたまに帰りに色々な店に連れて行っていましたが、ほぼ毎日が家と会社の往復でした。
家と会社の往復で疲れて帰ってきて幼い私が「ママー」と迎えるのは楽しみのひとつだったそうです。
ある日のことでした。迎えに出た私を見て母は驚きました。
昼間、祖母が「綺麗にしてやるよ」とライオネスコーヒーキャンディやイチゴ三ミルクの包み紙をリボンの形に折り、ヘアピンにつけ私の頭につけてくれたのでした。幼かった私はウットリ、沢山の包み紙をつけたまま商店街に祖母と出かけ自慢をしてまわります。
それを聞いた母は無言でリボンをひとつずつ取っていきました。
ある日のことです。会社から疲れて帰って来ると「ママ―」と妹が迎えに出ます。迎えに出た妹は、
幼い頃、妹はよく食べる子だったので全てがパンパンでした。マブタもパンパンでシワがひとつもなかったのです。祖母は妹が二重マブタにならないのではないかと心配し、洗濯バサミをつけたのでした。
母が慌てて洗濯バサミを取ったのは当然の行動だと思います。
またある日のことです。疲れて帰ってきた母を妹が「ママー」と出迎えるのですが。
洗濯バサミを痛がる妹のために祖母はセロテープを使ったのです。祖母は二重のマブタと高い鼻があれば美人になれると信じていました。そのため、
ただ、痛がるので洗濯バサミはすぐにやらなくなりました。
祖母は孫を溺愛していましたが、ちょっと美意識を押し付けがちだったのです。妹は「おばあちゃんは美意識高かったよね」と納得しています。この「洗濯バサミ・セロテープ事件」は今でも笑い話のひとつなのでトラウマにはなっていません。ご安心を。
ただ、母親としてはこれらのことを危険だと感じたのでしょう。娘達の変化を見るたびに、
と毎回叫んでいました。そして、とうとう我慢ができなくなったのでしょう。怖い姑である祖母に、
と直談判していました。祖母も反省したのでしょう。それ以降は洗濯バサミもセロテープもやらなくなりました。
そのかわり私達を子役にしようとオーデションに申し込もうとして父に強く叱られていました。申し込みが阻止されて本当に良かったです。
お父様、ありがとうございます。
4.母はこんな人④
過激な祖母に母が長年嫁として仕えられたのは、自分に都合の良い思考を持っていたからです。祖母も晩年は父ではなく母を「ママ、ママ」と慕っていました。ただ、都合の良さを優先して悪いことにフタをしがちだったため、病気を悪化させてしまうのですが入院中も母はとても明るかったです。
母が明るかったので私も元気に病院へ通えました。その点は感謝しています。
母が亡くなってから同室で仲良くしていただいた方が線香をあげにきてくださったのですが、享年を見て「え……?」と驚きます。
「どうされました?」
妹が不思議に思い尋ねると
「聞いていたより10くらい年上だったので」
と驚かれていたそうです。
妹が爆笑しながら電話をかけてきました。
自分がいないところでも笑いを提供する母でした。
5.母の大笑いエピソード
最後に母の大笑いエピソードを披露して終わりとさせていただきます。
妹と一緒に帰宅していると、前を母がタラタラ歩いてます。道を間違えないように歩いているので既に疲れ切っていました。
そこで声をかけようしたのですが妹に「待て」と止められます。
妹が悪だくみを考えていることにすぐに気づいたため、足音を立てないようそぉーと母に近寄りました。母から2,3歩というところで妹が突然、
母は常にバッグに仕事に関するものを詰め込んでいました。伯母に「必要なものだけを入れなさい」と言われても「もしもの時のために」といつもパンパンにしていたのです。母にとってはすごく大切なバッグを急に引っ張られたので、
私達を確認せずに大声を出すので慌てましたが、その姿があまりに面白くて姉妹で爆笑してしまいます。母は大声を出しきった後、私達を見て大笑いし出しました。こういう時、母は絶対怒りません。
やはり母は広い心の持ち主だったのかもしれませんね。
母の日の前日だし、そういうことにしておきましょう。
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