バイク乗りだった友人と、伊良湖岬をツーリングしていた。それは、彼女が最期に走った道。高台の鐘をふたりで鳴らすと、彼女はわたしの頭をひと撫でし光りへと吸い込まれていった。相変わらずの心配性だ。
次は、ふつうがいい。
毎日、お弁当作ってもらえるひとになりたい。
箱の鍵が壊れてしまった。なかには自我という鎖をしまっておいた。やつらは生命維持装置なみに暴虐でしかない。いま静かな箱の底には時を経たワイヤーカッターだけが、わたしを待っていてくれる。ひとは皆、いつか気づく。何よりも、ずっと傍らにあるものに最期は感謝するんだ。挨拶はこうだ。疲れた。
漸う夏もおわる。
アタラシイ仲間が加わった。それの名は激痛。
3月1日。千葉市
抗がん剤は夢をみない。然りとて、現実的にも非ず。それは誇示するために在る。役立たずに有りがちな手法だ。動もすると夢ばかりを語る。夏の雨の止むころになれば使い手は、いつかの諦念を唱えることに費やし余剰とするのだろう。鳴音する放送塔のようだと、
死ねばいいのにとは、生きている矛盾。
毎日の日記を時折よみかえす。 わたしだけが描くはずの頁には、わたしの知らない何かがいる。それもわたし。記憶は花のよう。散ってしまうか、枯れるか。種子は迷走か迷路か、定かにない。葉脈を迷ううちに根腐れをする。花の咲かない冬はすこし楽だろうに。
金魚すくいがしたい。 すくうのは金魚にあらず、虫。 殺すには容易でない。
ここ数日は、便器の考察ばかり。 汚れる箇所の不具合や用途から、不足になく欺瞞を知る。首がなければ思考することもない。不可解。tell me why,
百死にたいと呟いた、ただ それだけで気楽を得た。
左手にそうでもない世界を掬って、みぎてにどうでもない世界を吊り下げて、天秤の計を眺む。 さりとて悪くも善くもなく安堵する。 左手は死にたく、みぎては足掻くようなものだった。
山のなかへ置いてこられたならよかった。自転車のお兄さんが声をかけてくれた。「大丈夫ですか」の問いに思わずと、まだ死にませんよと笑った。
ひとは、なにの結末を期待するのだろう。目下、わたしは鎮静を知りたい。
ひとは、非とで在ることに明け暮れます。虫ではないからです。太宰治は、太宰治であることに非であると唱えました。逃避行は、きっとどの世でも苦行だったことでしょう。本業を言い分けるくらいなら、やめておしまいなさい。それを世に出すことは犯罪同等。
木の芽どき漸うと、引き込まれてしまう。春のあやかし、ふゆを装う術師。
電脳世界が何れだけ蔓延るとしても、己を正当化する理由にはならない。何でもありの世界など無い。顔洗って出直すか、閉鎖病棟から出るな。
黒いものだけ応える。 欲するは雪花の如く、また冬を待つしかない。 呼応とは、儚い。
65リットル涙の塩分濃度をただひとりのために使う人生を知りたかった。
今日は蜜柑を食べた。甘くない蜜柑、檸檬よりすこし甘い蜜柑。こころの目方を気にして、秤にはのらなかった。おとついくらいには、三升ほど足りなくて困った。
ひとは、ひとを、許容とはどこまでかを思いがちにあるけれど、空には古の浮かぶよ。恋を知らないと、わたしが云ったら、それを歴史と云う誰かのいた時間が確かにあった。だから、わたしはそれを愛と呼ぶことにしたんだ。いまも、膝の上にいる。すこし臆病だけれど、ときおり笑う。
ひと昔まえ、着ぐるみの歌唄いをみていた。長いながい夢のなかで、今また着ぐるみの歌唄いがわたしを唄う。唄いながらに着ぐるみを脱いでゆく着ぐるみをわたしは齣送りにみている。夢か現かのふらここよ。それは子守唄か、それとも夢の途中。
相好の花、萎れはぶるときほど死中に生む。
胸が淀む。判然とせずにあるものが、なにかは判然としている。相対性であると、そこにリベルタスは創造されるも、それはリーベルタース。無を知ることは出来ない。ひとでも、金魚でも。唯、じっと心を潜ませ、宥めすかし、そうして待つ。待つのは冬。冬が好きなんだ。ずっとそうしている、皆が冬眠を