本来の面目は、即ち吾が聖門の所謂良知なり。伝習録では禅語を用いて良知を説明することがよくあります。陽明学の理解に禅の理解は必要不可欠なものです。良知を致すとは本来の面目を発揮させることでしょう。この点からしても知行合一が単なる知識の実行ではなく良知の仏性を実行することだと言えます
知行合一。知の真切篤実の処は即ち是れ行にして、行の明覚精察の処は即ち是れ知なり、と伝習録に書いてあります。これを読むだけでも知識を行動に移せばよいといった単純な行動論ではないことが分かります。心の虚霊明覚なる処が良知であり、心の天理を精察して本然の良知を致すことが知行合一なのです
聖学晦くして邪説ほしいままなり。伝習録によれば権力欲に満ちた覇道政治が横行することで聖人の道が衰退したとあります。邪説とは記誦の学、訓詁の学、詞章の学などのことです。文字の形式にこだわり、人間性の内実を疎かにする学問です。口先だけの覇術で世を支配する覇道政治が世を惑わすのです。
格物致知。陽明学に於いては、ものをただして知をいたす、と読みます。ものとは物質では無く心の中の邪心や邪念欲心のことです。そのために良知を致すのです。人の聖性、霊性、神性を発揮して邪心邪念を正すことが格物致知です。山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難しという心即理がこれです。
痩我慢 福澤諭吉 その説を 實行したのが 河井継之助
致良知。良知を致すことこれが陽明学における知行合一です。良知は天理の照明霊覚なる処であり心の虚霊明覚なる本体です。造化の精霊でもあるため草木瓦石も良知であると伝習録に書かれています。風雨露雷、日月星辰、禽獣草木、山川土石は人と一体なる良知の発露です。見性成仏する禅と同じ修行です。
知行合一。知識を行動に移せば良いという単純なものではありません。知行の知とは良知のことです。良知は造化の精霊であり人にあっては言わば魂のような霊的存在です。この良知を致すことが本当の知行合一です。人は誰でもこの良知を持つていて致良知によって聖人になれるとしたのが陽明学の本質です。