どうやら私は、見込みのあるひと、らしかった。 SVの先生の夢をみた。 下(深層)から上(表層)に上がってくる濁流に、呑み込まれていた。 夢が予感するには、SVの先生との出会いと取り組みは、美し気なるものにも、表面的なものにも、社交的なものにも、「ならない」。ということなのだろう。
心理のひとにも、福祉のひとにも、精神分析のひとにも、カテゴライズに入りきれない自分を発見して、相変わらず「ある種の孤独」を抱きしめている。 But Who decide? You are just You. 外部からの物差しで測り切れない自分を、私は内側から愛するようになってきた
意図してないが、なぜか良い具合に曜日で均等に割り振られ、月曜〜金曜が基本的に全て、精神分析に関わる何かしらのアクティビティで埋まる見通しになった。 これしかできない。 たぶん私には、これしかできないんだと思う。 これがしてみたい、よりももっと、深く切実な欲求に衝き動かされてもいる
誉められると、腹が立ち、逃げ出したくなる。 分析家と話し合う中で、過去、虐待者が、私のことを誉めた(かわいい、崇拝している、など)後で、性的虐待に及んだからで、私の中では、「褒められること」と「虐待されること」がセットになって理解されていたことが分かった。 結び目が解かれる思い。
生きることの苦しさ。 吸い込まれそうな悲しみ。 矛先を探して暴れ回る激しい怒り。 情動の嵐を共に耐えることを学びたいと願う。 隠れて見えなくなった情動に触れる勇気を支える安全な方法や静けさを、知っていこうともがく。 専門家になっていく努力を、私は諦めないと決心し直す。
湖だな。 湖が見える。 私は、湖なんだろう。 太陽がギリギリ届く薄明かりの中で、湖底にシンと座っている。 湖面を見上げると、水面がキラキラと光り、風に揺れているのが分かる。 浅いか深いか、なんだろう。 浅瀬で出会うか、水深の深い地点で出会うか。 どこまで降りていくかなんだろうな。
今日から個人面談開始。 職場で打診を受けてから1カ月弱、上長さんとも精神分析家の先生ともたくさん話し合ってもらったり。 資料再読やセミナー参加、情報整理etc.準備を進めてきた。 「いまの私」がやれることを精一杯誠実に。 全身「耳」になって聴く。
良い音のする本(学術書)を聴き 好きなフレーズの文章を写経 ピアノを弾き 分析を受け 夢を見て 日記を書く ひとと語り合い 散歩をする セミナーやシンポジウム、事例検討会に出る 海外ドラマや映画を観て よく眠る これが私の脳を最大限活用する方法
夫が二泊三日の家族旅行を企画してくれた。 昔はこうした喜びを素直に受け取れなくて(今でも少し難しい)、逆ギレしたり泣いたり無視したり寝込んだりして、自己嫌悪に陥って夫婦関係が複雑になったりしていた。 トラウマケア4年目。 嬉しいことは嬉しいと受け取っていいんだとしみじみ思う。
「この場所とひとたち」のグループセラピーのようなものがあると確信を深めていっている。 それを、個人面談を通して、やっぱりそうだな、と言語的な理解や、理論的説明を、私は得られている。 面談を重ねるたびに、表情も体幹もシャッキリして変わっていく、元気になっていくの、驚きしかない。
何が君の幸せ 何をして喜ぶ 解らないまま終わる そんなのは嫌だ
心理アセスメントや治療構造や安全、他職種連携など、さまざま頭を使って配慮しながら、私は私の責任においてセッションの場を守る、と決めてそこに居合わせている。 そこで語られる物語や、生起する出来事の美しさに手を合わせたくすらなる。 面談記録って、話者の物語の代筆記録者になる感じだな。
閏年の2月28日に始まった個人面談。 私にとっては、イニシャルケースになる。 私自身にとっても、深い意味を持つ方々と出逢った。 話し合いながらずっと、音を聴いている。 音のテンポや音質、曲調が合っていき、混乱した音が静まっていく。 シンとした沈黙さえも美しい。 音楽だな、と思う。
「(カテゴライズされたかったけど)カテゴライズされない自分」が持つ、無限の自由と気楽さを享受する。 私は、目の前の話者に役立つと思えるなら、精神分析でも、精神医学でも、心理学でも、社会福祉でも、どの分野の知識も活用しよう、と思う。 音が良いなら。 共感覚の音が私の羅針盤だった🧭
ここでの面談を精神分析的心理療法の理解に基づいて組み立てる覚悟がついた。腹が決まった。 ここでの面談に精神分析が役立たないなら、誰の為の、何の為の療法なんだ? 私は、もがく。 個人分析を継続し、今年度は事例検討会への参加で教育分析は時期をみることに決めた。