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最適化への第一歩は自分を知ること

P31. 解脱(真我)を願う者にとって、現象世界の構成要素や性質の探求は全く不要であり、すべきことは真我を覆い隠すもの総ての拭い去りである…とマハリシ。そして、現象世界は夢のようなものと見做されるべき…と加える。そろそろ真我を(観る働き以前の)根源的一者に置き換えたくなってきた…

P32. 解脱を願う者にとって本を読むことは・・・本を読むあいだ解脱は成されない。何故「私は誰か」と問うか。想いと対象がある限り一者は隠され続ける。想いの源流を辿るとき、為すべきは心を静寂に保つこと。手放す恐怖が智慧で癒され、輪廻に縛られた心もろとも「沈黙」に溶け込み滅するまで…

【エッセイ】人生の物語は最初から最期まであらかじめ定められていて自我や自由意志では変更できない

「自己認識のために」

1か月前

P33. 幸福とは真我の本性そのもの。私たちは無知のゆえに対象物から幸福を得るものと錯覚する。心が外に向かえば悲惨を味わう。世界と想いが消え去れば、心は幸福を経験する…とマハリシ。想いとその対象物(二元)を滅し、清浄なる沈黙(一元)にあり続ける智慧、心と一者の邂逅、如実知自心…

真我とは 本当の感謝をすることで引き出される「本当の自分」

P28. 真我の本性とは何か?存在するのは真我のみ。真我は「私」という想いが絶対にないところのもの、それは沈黙と呼ばれる…とラマナ・マハリシ。喩えれば、対象物たる心のざわつきを滅し、あたかも水面の月光が静寂しきった月とただ一つに還るように。釈尊の拈華微笑は沈黙の響きなのだろうか…

3週間前

P27. マハリシは「想いを完全に捨て去り真我に集中すべき」と言ながらも、心の制御にも言及する。即ち、欲望と憎しみ、善い悪いから離れよと。心が静まれば総ては静まる。心底、印象世界は心の投影と観じる時、他者は私。他者への想いはそのまま私に還る。我儘を去った静寂が心を濯ぎ終えるまで。

3週間前

P28. 探求はどのくらい続けるのか?ラマナ・マハリシは、心に対象物とその印象が残る限り「私は誰か」と尋ねなければならない…と言う。結局、心は自らの想いに縛られる。心と想いの主客に気づいたら、想いのみならず主(あるじ)たる心の消滅が叶うまで探求は続く。私の心を存在させた私は誰か。

3週間前

P23. 心にある想いの最初は「私」という想い、他の想いはその後にしか現れない。そして、真我の実現には「私は誰か」という想い自体をも滅ぼすことと、ラマナ・マハリシは言う。燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒が、最後はその炎に焼べられるように。二元を破壊する問い「私は誰か」も対象物…

4週間前

P25. ラマナ・マハリシは、心に静かさを取り戻す方法と心の消滅の違いを説く。そして、心を消滅する問い「私は誰か」は、よく整えられ静まり一点に強く集中された心にとって容易であると。呼吸を整える、神の姿を瞑想する、真言を唱え続ける、断食など…は集中の術。心身の清浄は最大の支えとも…

3週間前

P29. №17 少し読み辛い。意志を持たず、ただ存在するという美徳の「太陽・神・エーテル」は真我の比喩だろう。自然現象や個我のカルマが、真我とは全くの別物という影であり、如何に無力であるかを ラマナ・マハリシは説いているように思う。自意識過剰が招く観自在の欠如と誤った寄る辺と…

2週間前

P20. これら(五蘊など)が私でないなら、私は誰なのか?マハリシは「今述べたことのすべてを これではない、これではない と否定し去ったあとに、ただひとつ残る自覚、それが私である」と。思うに、私の身体、私の心、私の命…と私の○○がある限り、その対象物を観る私が別に居ることになる。

1か月前

「エゴの放棄」と「菩提心」

3か月前

P24. 私は誰か…という想いを保つには、他の想いが差し挿んだ時に「その想いは誰に起こってきたのか」と尋ねるべき…とマハリシ。他の想いの源泉は個我の垢たる付着物。穢れ無き真我に個我を入滅せしめるに「ただ真我の如く…」と、個我は無心な問い「私は誰か」を頼る。無垢な個我をも滅さんと…

3週間前

P22. 総ての認識作用と、総ての行動の源である心が静かになったときに、世界は消えてゆくだろう。―とマハリシ。しかし世界を消したい衝動はトラップだ。これは認識と動機の起源たる心を深める道標。その心も私ではないと言う。ただ「私は誰か」と問い質し、一旦、認識と動機の沼を這い出たい…

1か月前

そうだよ。とても簡単でしょう?

1か月前

P22. マハリシは、真我に内在する心の驚くべき力、つまり世界の生滅は想いが担うと語る。ただ、自ら作り出す粗大な生滅に心が依拠するあいだ真我は隠される。この世界と真我の相容れなさは問題だがヒントだろう。相容れないのは別物ゆえに是非もなし、心は私ではないとマハリシも言うではないか。

1か月前

P20. これではない、これではない…と総てを否定し去った後に、ただひとつ残る自覚。これこそが私そのものとマハリシ。而してその自覚の本性は「存在ー意識ー至福」と言う。在りてある個の原初、穢れのない属性以前、無執着で些細な動機にも縛られない幸福か。表現を重ねれば重ねるほど遠ざかる。

1か月前