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いのち

最近の僕の人生はホントに咽せ返る程に
クソみたいな毎日の繰り返しです。
お陰様ではこんなにも明確な鬱状態に
出会えたのは久しぶりでございます。

今日もタバコを買いにコンビニに行ったのですが
人とすれ違うと吐き気と動悸が止まらなかった。

動悸を落ち着かせる為に公園で、
タバコを吸った。
ふと「命」って何やろう。と考えた。

僕は人生で葬儀に2回しか列石した事がない。
1回目は小学3年制の頃。
母方の祖母の姉(以後イモ表記)が亡くなった時。
赤ん坊の頃によく可愛がってもらっていたらしいが
物心が付いてからは、会っていなかったので
それ程、何が起きたのかは、
ハッキリと理解をしていなかった。

だけど、棺にお花を添えに行く時に
少しだけイモの身体に触れた。
冷たくてホントに動かない。
人生でご遺体を見た。
どの感情からかは憶えていないが、
涙が溢れてきた記憶がある。

2回目は大学1回生の冬に
父方の祖父が亡くなった。
祖母と僕たち4人家族での家族葬だった。
じいちゃんが息を引き取った連絡が入って時は
何故か冷静だったし、
正直あまり何とも思わなかったが、
やはり葬儀の時にじいにゃんの顔を見ると
涙が出てきた。

けれど、咽返す程の泣き方はしなかった。
いや、出来なかった。
何処かずっと冷静な自分が心の中に存在した。

家族に対してはいつか別れが来るという
認識や覚悟を割と常日頃からもっている。
でも、友人や仲の良い先輩や後輩は
ずっと近くにいると思ってしまっている。

だから、あの時に行動に移したけど失敗したと
聞かされた時はその場で何と返答しかは、
憶えていないけれど、
その日は泣きながら帰ったことは憶えている。

そんな事を言いながら僕自身も
それに近い事をしてしまった経験かある。

それらを経て思うのは、
「命」=「生きる」ではなくて、
「命」≒「死」に向かう過程。

そんな風に僕は思います。

どの世界でも生きる辛さが、
どうしても大きくなり過ぎてしまって
キャパオーバーする時がありますよね。
その時に自分にとっての「命」についての
捉え方や考え方や重み何かが、
分かるんじゃないでしょうか?

普通に寝て起きてを繰り返してる内は
辿り着けないよ。
だって澱み切ったアホンダラの世の中に
錯覚させられてしまうから。

僕自身も含めですが、
人に優しく生きようね。
どうせ出来へんねんから。

心穏やかにお過ごし下さい。

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