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【書評】アイドルのトライ&エラー『TRY48』(中森明夫)

私はいわゆるジャニオタ(ジャニーズオタク)で、女性のアイドルにはまったく興味がない。
同族嫌悪というものが働いているのか、キラキラと輝く女性を見るとその放つ光が眩し過ぎて直視できず目を背けてしまう。歌う歌詞も女性目線の恋愛ものが多く感じられ、恋愛に興味のない私は聴いていて微妙に感情移入ができない(だからといって、男性目線だと感情移入できるかと言ったらそういうわけでも決してない)。
なので、私にとってのアイドルはジャニーズだけだし、もちろん女性アイドルを何グループも知ってはいるけれど積極的に曲を聴いたり、好きになったりすることなかった。
でも女性アイドルが嫌いなわけではなく、彼女たちが女性のあこがれでもあるきらびやかな衣服をまとい、かわいくメイクをし、ふわふわな髪型をしてるのを見るのはむしろ好きな方だ。女性のほしいものをすべて詰め込んだような存在が、女性アイドルとも言えると思う。

さて、この本は天才と呼ばれた寺山修司がもし現代まで生きていて、アイドルをプロデュースしたら……?という「if」の小説だ。
寺山修司はアングラ劇団「天井桟敷」を主宰し、小説、エッセイ、評論、演劇など多彩な才能を発揮した人だ。彼は肝硬変からくる腹膜炎を併発して、敗血症で47歳の若さで亡くなってしまうのだけど(葬儀委員長はなんと谷川俊太郎!)、そこから劇的な回復を見せて現代に生きていたらこんなことやってるだろうなあと想像を膨らませて書かれている。
なんというか私は読んでいる間中「すんげぇ」と口をあんぐり開けたままだった。

まず、深井百合子という坂道系アイドルになりたい女子高生(のちに坂道系はダサいと言われて、ガクッとくることになる)を主人公に据え、そこに黒川サブコという黒子的な存在を影に置く。何がすごいかって、百合子を影から支えるサブコの寺山修司とサブカルに対する知識が膨大なのだ。それはもう、目まいがするほどに。
「くどい!」と思う人もいるかもしれない。でも読んでいくほどに、だんだんとこってりとした寺山修司とサブカル論を求めてしまう自分がいる。

例えば寺山修司は子供を何人も集めて女性とあんなことをさせたり、女性を素っ裸にさせて(男性スタッフもいるのに)撮影したり、「あしたのジョー」という漫画内で亡くなった力石徹の葬式を大々的にやったり……。およそ現代でやったら顰蹙を買うどころか警察に逮捕しかねないことをやってのけている(そして実際に逮捕もされている。自業自得なんだけどね……)。
それが正しいとか、間違ってるとかそういう次元の問題ではなくただ「やってみたい」「試してみたい」ということを実行したに過ぎないから、なんというかトライ&エラーの成れの果てが寺山修司という人間なのだ。
人間って考えていてもなかなか行動に移さないし、動き出すまでにかなりの労力がいるんだけど、寺山修司はそれを一切いとわずに「え?やりたいの?だったらやればよくない?」という軽い感じで始める。
結果なんか考えない。結果よりも先に、次の工程へと移ってしまう。
「時代の寵児」という言葉があるけど、きっとそう呼ばれるに値する人だったんだろうなーと思う。

と、同時に本書は女性アイドルの苦悩的なものもちゃんと書かれている。
主人公の深井百合子はなんの特徴も特技もなく、特別美人でもない普通の女子高生だし、同じ仲間(TRY48)の超絶美少女は多重人格、ぬいぐるみに話しける着物の子は蛇がペット、とんでもない巨漢な子もいれば、ぼくっ娘もいる。つまりは個性が豊かでありつつも、自分の特異な部分を「アイドル」という形で肯定しようとする子たちがたくさん登場するのだ。
深井百合子は平凡すぎるのが悩みだし、巨漢の子だって「デブコ」って言われることに腹は立ってるし、多重人格の子は人格をコントロールできてないように見える。
だけど、女性アイドルグループという枠の中に入ることでアイデンティティを、「個」というものを確立させることができる。それが各々と心の安寧へと繋がると同時に、「個性」に自我が芽生えていく瞬間が読み取れると思うのだ。
この本が長編な理由は、そこにあるんじゃないかなと思う。女性アイドルグループという一本の芯を通して、「痛い奴」とか「ヤバい奴」という世間から冷ややかな視線で見られる子たちにもちゃんと人権を与え、生かしてくれる。めちゃくちに勇気をもらえる本でもあると思う。

アイドルは偶像崇拝と言われるけれど、偶像に縋って何が悪いと私は思っている。自分がなることが到底できないキラキラした存在を日々の糧として、私たち今日も生きていくことができるんじゃないか。

西桜はるう


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