見出し画像

[書評]信じることは罪なのか?『食べると死ぬ花』(芦花公園)

いやはや、えらいものを読んでしまった。
ホラー小説の類に入るのだろうけど、幽霊が出て来たり、心霊現象がほぼ起きない。
登場する人物はちょっと人生につまづいてしまっている人たち。
いや、ちょっとじゃないかな。
上手く立ち回れなかったり、ボタンの掛け違いだったり、なんというか、不器用でもあり、ズルくもあり、とにかく「人生上手くいってません」という人たちが主人公の連作短編集である。

その弱さにつけこむように「久根ニコライ」という人物が救いの手を差し伸べる。
この「久根ニコライ」はめちゃくちゃ胡散臭いのだけど、人生に疲れてしまったり、上手くいってない人にはもう天使や神様に見える。
正直、新興宗教ってこうやって生まれるのだろうな、という感じだ。

この小説は「信じる」ことの恐怖をホラーという媒体を使って書かれている。
久根ニコライはどん底の人生を送る人たちに何か「信じる」という依代を与えてくれる存在だ。
その依代を使うかどうかは、本人にかかっている。
久根ニコライを信じてもらった依代で人生を逆転させるのか?それともズルズルとこの人生を送るのか?
人間は弱い生き物だ。
基本的には依代を使用するに至るし、その後の人生がどうなったかは読んで確かめてほしい。

「神頼み」という言葉があるように、脆い人間という生き物は、縋るものがないと生きていくことができない。
私が猫と本がないと生きていけないように、「信じて、縋る」ものがあるからこそ私たちは生きていくことができる。
しかし、そこにつけ込まれるとどうなってしまうだろうか?
取り上げられないように抵抗するだろうし、失ってしまったら次の「信じて、縋る」ものを探すだろう。
そこを上手くこの小説は形にしてある気がするのだ。

あなたが信じるものに裏切られてしまった時、この本を読むのは危険だ。
久根ニコライに代わりの依代を渡されて、コロっと破滅の道を歩むかもしれない。
でも本当は何かを信じることは、尊い行為だ。
そして久根ニコライが「悪」な存在かと訊かれたら、一概にそうとも言えない。
「信じる」ことを究極の形(その正体が久根ニコライだと思う)にして、破滅を描いたらこの物語になったのだろうと思う。
あ、破滅と言ってしまった。
そう、この物語の人たちは信じたが故に破滅していのだけど、その破滅の仕方も奇妙で恐ろしい。
登場人物たちが選び取った「信じたが故に堕ちてしまった破滅」をどうか見届けてほしい。

あなたの信じているものは何ですか?
その信じているものって……。

西桜はるう

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?