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EMDR体験記〜Part7〜アトモキセチン(ストラテラ)増量と自殺した祖母の記憶

こんにちは、CPTSD(複雑性PTSD)と解離症の悪化によりEMDRを受けることになった芸術家になりたい現在大学休学中&精神疾患拗らせ中(発達障害、CPTSD、解離症、摂食障害、アルコール乱用等々)のHarunaです。

今回の内容は病院の都合により2週間ぶりのEMDR7回目の話です!

私が何故EMDRを受ける事になったのか、その詳細と体験記Part1~は過去に書いた記事があり、マガジンにまとめております。是非併せてご覧ください。

Part7

祝日を挟んだ為、2週間ぶりの病院であった。この期間で私はとある過去の記憶を思い出した。これから控えているEMDRの重要な部分である眼球運動や、またこれからの通院に際して主治医に伝えるべき記憶だと感じた為、今回主治医にその思い出した記憶について話してきた。


7回目の流れ

最近の様子はどうか?
→服用している薬の確認と調整
→EMDRカウンセリング(思い出した記憶(祖母の話)とフラッシュバックで思い出す一番強いトラウマの場面はどの場面なのかについて)
と言う流れで進んだ。


服薬の変更

最初は通常通り、最近の調子を聞かれた。これから書くのだが、ふと思い出した祖母の記憶の影響もあってか、今週もいつにも増してフラッシュバックが多く、身体が言うことを聞かない日や、酷い離人感と現実感消失感がある日が沢山あり悩まされていた。
主治医に相談したところ、今回は少しだけ薬の服用に変更があった。

4回目のEMDRのカウンセリング以降、セルトラリンという薬が追加になった。少し継続し服薬してみていた。効いてはいたのかもしれないが、私の場合は効果の実感をあまりしていなかった。

私がいつもお世話になっている主治医は、あまり薬の種類を増やしたくないという考えを持つ医者で、私自身もポリファーマシーというのであろうか、多剤服用になるのは避けたいと思っていた。
フラッシュバックや解離が悪化し辛いと伝えた所、服薬に関して二つの提案がされた。

  1. セルトラリンを増量し、ストラテラを中止する。

  2. 反対にストラテラを増量し、セルトラリンを中止する。

この二つである。私はセルトラリンの効果を実感していないという理由とストラテラを飲んでからアルコールを乱用する日や過食嘔吐する頻度が減ったという自覚があることから2のストラテラ増量、セルトラリンの中止を希望した。ストラテラを服用し、何故アルコール乱用や過食嘔吐の頻度が減ったのか疑問に思っていたのだが、主治医から聞いた事やインターネットでも検索をしてみた結果の元、ADHDの特徴の一つである衝動性の部分に効果を発揮し、頻度が減っているようだ。100%抑えることが出来ている訳ではないのだが、格段に衝動的に暴れてしまう笑頻度が減っている自覚があり個人的には凄く感動している部分だ。

そんなこんなでnoteを書いている今現在(2023/04/03)精神科から処方され服用中の薬は睡眠薬2種類、ADHDの症状緩和の為のストラテラ、頓服でもらっている抗不安薬1種類漢方薬。その他に月経困難症とPMS、PMDD治療のため婦人科から処方して貰っているディナゲスト。元々肌が弱く、また機械性蕁麻疹という蕁麻疹が出やすい体質の為、皮膚科からビタミン数種類フェキソフェナジンを処方して貰っている。
なんだかんだ既に沢山の種類を服用している気がする…。
何も飲まず健康な心身でいられる様になりたい…。。

いずれそれぞれの薬についても分かりやすくnoteにまとめたいと考えている。
まあ、今回の薬の話はこの辺にしておいて…


祖母の記憶

母との会話でふと思い出した祖母の話に移ろう。

前回の通院からのここ2週間程の間に、私はトラウマ時期に被っており、尚且つ解離性健忘が起きていたであろう真っ只中の記憶の一部をふと少し思い出したのだ。

母方の祖母の存在である。自分でも驚きなのだが、祖母は私の家で自殺していた。
記憶がない時代の出来事であったのではっきりと覚えておらず、ふと祖母の存在を思い出した際に両親に尋ね非常に驚いた。このような事をはっきりと覚えていない自分にも、そんなことが起きていた事実にも驚いた。私は記憶が無いので、両親から聞いた祖母が何故このような形で亡くなったのかをわかりやすいように時系列、かつ箇条書きでまとめさせて頂く。

  • 祖母は私が小学3年生の時、私の家(私の両親、兄、私、愛犬で住んでいた)に介護という形で一緒に住む様になった

  • 祖母は人工透析をしていた

  • 祖父は私が幼い頃にすでに他界していた

  • 母の実家(祖母が住んでいた家)で祖母が一人暮らしをするのが危険だという事になり、母の兄弟のうち誰かが引き取る事になった

  • 母には二人の兄がいるのだが、どちらも拒否した(生前の元気な頃の祖母は随分と怒りっぽい性格であったらしい。癇癪を起こす様なタイプだと母から聞いた。故に母は自分の母である祖母の事が嫌いであった。私に直接「私は婆さん(母の祖母の呼び方)が嫌いなの」と口を溢すほど。推測するに、他の兄達も介護をするのが嫌であったのだろう。結果末っ子なのだが母が引き受けることになった)

  • 致し方なく私たちの家で暮らすことに

  • 父曰く祖母と母はよく喧嘩していたそう

  • 私が中学2年生の時に、私たちの家の祖母に貸していた部屋で亡くなった

  • 最初は不審死として警察、病院に言われていたらしいのだが、死因解剖をしたり死亡した場面から想定するに(私は部屋も死因解剖も立ち会っていない)やはり自殺である可能性が高いとのことであった


私の記憶の中でも、朧げにだが祖母が一緒に暮らしていた時期があるという断片的な認識はしていた。そしていつしかいなくなっていた。そしてふと気がついた時からリビングの片隅に母方の祖父と祖母の遺影らしきものがあったので、その事から「ああ亡くなっているのか」という認識はあったらしい(他人事みたいで申し訳ない)。
しかし、いつからいつまでいたと言う上記で両親に聞いた詳細なことは何一つ覚えていなかった。


私は小学4年生からの部活のトラウマ、習い事の挫折から不登校に至る中学3年生の頃の記憶が無い。解離性健忘という症状だ。

そう思っていた。

そう思っていたのだが、今回引き出された記憶や聞いた状況から、小学4年生からの部活のトラウマ、習い事の挫折のみならず、家庭内で不調和が起こっていた事を知った。

私は予てより何故ここまで他人や自分の両親にでさえ本心を打ち明けられないのであろうか?この我慢癖ともいう様な性格的特性は何なのだろうか?と疑問に思っていた。

今までのEMDRカウンセリング中の主治医からも
「その事(部活での度を越した体罰や暴言、習い事との葛藤、人間関係の辛さ等々)は両親には相談していなかったの?」や
「当時は何故両親や他の人に相談出来なかったのかな?」
と聞かれた事があった。聞かれた時は自分でも分からず、
「何故なんでしょうね、?笑記憶が無いので何とも言えませんが…。相談、したん…じゃ無いですかね?」
などと返答していた笑

私は両親にきちんと相談する事が出来ていなかったのかもしれないと気がついた。

全ての記憶を思い出したわけでは無い。しかしふと祖母と母の激しい喧嘩、口論と仕事で疲れている父が仲裁に入るというシーンが想起された。

私に対しては過保護気味で優しく守ってくれる非常に頼れる強い母なのだが、客観的に見るならば、祖母に育てられてだけあり、まあ母も気が強くキツめの性格である。

「そんな婆さんが嫌いで反面教師にしているの」
「優しくて可愛い私の子(私の事)には絶対あんな育て方をしないと決めてるの」

と母が言ってきた事があることも思い出した。私に対して過保護である理由も何となく察した。


解離性健忘と自傷行為

私は家族に大切に育てられた。自分からやりたいと始めた習い事も幼い頃からさせて貰っていた。健康的で愛の籠った美味しいご飯を食べる事も出来ていた。父方の親戚からもとても可愛がられ、いつも可愛いね、いい子だねと言われ育てられてきた。

小学4年生から部活を始め、そうでは無い同学年の子達に出会った。両親にお年玉を勝手に使われていると言っていた子。シングルマザーで仕事が忙しく中々帰ってこない上にご飯は冷凍庫にある物を食べていると言っていた子。

本当に幼少の頃は何も考えていなかったが、部活を通し私は両親にも金銭的にも恵まれ育ってきたのかなと小学生ながら感じた瞬間があったことも思い出した。
だからこそ私は家族は大好きだ。感謝しなきゃ。

そう思っていたのであろう。
祖母が来て家庭内のバランスが崩れてからは、
私は家族が大好きだ。だからこそままが大変そうだから可哀想。パパも忙しそう。休ませてあげなきゃ。愚痴なんて言えないや。もっといい子でいなくては。もっともっと我慢しなくては。

このように考えが変化していったのでは無いかと推測している。


凄く辻褄が合う。驚く程に自分の今の性格やトラウマ時期、健忘時期のストレス具合に納得ができた。

部活と習い事の葛藤と部活内の人間関係のストレスのみならず、家庭内でも沢山感情を押し殺していたのだろうなと過去の自分に対する新たな発見があった。

私は当時リストカットをしていた。自称癖やリストカットという言葉も知らなかった小学4年生の私は無意識に自己嫌悪や抑圧した感情、様々な縺れたストレスから何とか生きる為の松葉杖として選ばれたのがこの自傷行為だったのであろう。

もっと頑張らなくては、
もっともっと上手くやらなきゃ。
恵まれてるんだ私は。
この苦しさは私の努力不足なのだ。

こうして溜めに溜めた行き場の無い感情が、12年経った現在でも強烈な辛さを実感させる悪魔を作り出したのではないか。溜めに溜めた行き場の無い感情が、解離性健忘と自傷癖、劣等感、自信の喪失、圧倒的虚無の根元にあるのではないかと気がつくことが出来た。


主治医から

まあざっと上記の事を主治医に伝えた。
主治医は
「それは辛いね…。EMDRをするとどうしてもトラウマ時期の話をするから忘れていた事を思い出す事があるんだよね。でもきっと思い出すべくして思い出せた記憶なんじゃないかな。今後の治療に必要な情報だから貴方の脳が思い出してくれたんだと思う。」
と言ってくれた。

トラウマを少しでも和らげていく為に必要なプロセスなのだと思うと、自殺した祖母に対する感情や過去、当時の自分に対しても肯定的に抱きしめてあげたいなと思えた。


最後にこれらの記憶(部活、習い事、家庭内のバランスの乱れ)で、主にフラッシュバックした際に思い出す部分、辛い部分、脳内で過ぎる場面について質問された。私は部活の顧問に暴言を吐かれている場面と、自室で絶望感に苛まれている場面をよく思い出し呼吸が乱れる。この絶望感は複合的に絡まった当時のストレスを発散できていないで押し込め自分で苦しくなっているのだと思われる。その他にもちらつく別のシーンもあるにはあるのだが、どれもこれも比較的トリガーというか、きっかけ段階に過ぎない様な気がして今回主治医に詳細に伝えることはしなかった。

そんなこんなで今回も1時間に及ぶEMDRのカウンセリンが終了した。




最後まで見てくださった方ありがとうございます!
あまり楽しい記事では無いのですが、私にとってこの様にサバイブした記録をしたためる事は私自身のこれからの人生の役に立ちそうだし、今現在こうして過去と向き合おうとしている中、フラッシュバックが頻発して苦しい脳内を整理させるのにもってこいの手法だと思っています。なのでPart○までいくかはまだ分かりませんが書き記していくという作業も頑張っていこうと思っています。
今現在辛い体験をしている人、私のように過去のフラッシュバックで苦しんでいる人。様々な人がこの記事に辿り着いてくれているのかなと思います。人それぞれ千差万別な苦労をしている、あるいはしてきたのだと思います。どんなサバイバーでも「今」を頑張って生きている皆さんはとても凄いと思います。私の今回の記事然り、様々な方のnoteをぽつりぽつりと読ませせていただいていると、苦痛を強いられていたという自覚がないまま苦しんでいらっしゃる方も多いのではないかと感じました。私はふとしたきっかけで丁度1年ほど前からフラッシュバックが悪化し、その苦しみを誤魔化す為アルコールを乱用する様になり、心身限界を迎えたためこうして治療という形を望み奮闘しているのですが。トラウマの治療が既に済んだ方、あるいは現在進行形で私の様に向き合っている方々はどの様なきっかけで向き合おうと志したのでしょうか?辛い事と向き合おうという覚悟はなかなか持てるものでもありません。EMDR、持続エクスポージャー法、薬物療法、カウンセリング、認知行動療法etc.トラウマと一口に言っても様々な状況やアプローチ法がありますよね。私は主治医の勧めでEMDRに辿り着いたのですが、皆様や私の記事にいいねをくださる方々のきっかけや回復過程にも興味があります。私の最近のちょっとした疑問です笑。

今回、祖母の存在や関連する記憶を少し思い出すことができ、大きく実感したことが二つありました。一つはフラッシュバックや過去の記憶に襲われる回数が格段に増え、あまりに辛くなるという事。そして本当にこの辛い気持ちやままならない現状が本当に回復していくのか不安になってしまうという事。二つ目は故にEMDR然りトラウマ治療は覚悟を持って挑むべき治療だ、個人で調べ個人でやろうとする事は危険すぎると感じた事です。
骨折をしているわけでもないのに毎週病院に行き、毎日苦しんでいるのが馬鹿馬鹿しくなって悲しくなってしまいます。
だからこそ、サバイブしている皆様、乗り越えることが出来た皆様は非常に尊敬に値するなと感じます。
頑張って生きているみんなにも私にも幸あれ…!!泣笑


今回もこんなたらたらとした日記を見てくれてありがとう!次回以降も受けたら体験記更新するね!頑張ります!泣
少しでも参考になったら♡とfollow是非お願いします!
(記事投稿されている方やシンパシーを感じた方は積極的にフォローバックさせて頂きます!)

以上。
Haruna.


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