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『資本主義の家の管理人』~市場の時代を乗り越える希望のマネジメント 第6回 第一章 見ることと考えること 第三節 最良の奴隷にならないために 

第一章 見ることと考えること

第三節 最良の奴隷にならないために


<第一章構成>

第一節 世界の解像度を上げる~見ることからすべてが始まる
1.80億個の世界像
2.3次元の視点、4次元の視点
3.見えないものに思いを馳せる

第二節 人間の2つの本能~私益の追求と他者との適合性
1.アダム・スミスが見ていた世界
2.発展のエネルギーと秩序のエネルギー
3.小さな自由と大きな自由

第三節 最良の奴隷にならないために
1.自由の前提その1:考える
2.自由の前提その2:他者の存在
3.自由の前提その3:ルールの裏にある規範
4.自由の前提その4:貨幣と言語

第三節 最良の奴隷にならないために~考えて自由になる

最良の奴隷は自分を自由だと思っている

(ゲーテ)

人間は法に従うだけであってはならず、単なる服従の義務を越えて自分の意思を法の背後にある原理 ( 法がそこから生じてくる源泉) と同一化しなければならない

(イマヌエル・カント)

1.自由の前提その1:考える

さらに自由について考えてみます。

自由の前提は何か。ナチス・ドイツの迫害を逃れてアメリカに亡命したユダヤ系の女性政治哲学者ハンナ・アーレントの本にそれを考える重要なエピソードがあります。

1963年に出版された『エルサレムのアイヒマン』は、ナチスの戦争犯罪人であるアドルフ・アイヒマンの裁判を取り上げ、人間の自由と尊厳を奪う全体主義がいかにして生まれたのかを分析し、考えることの重要性を強く訴えています。

ハンナ・アーレント

アイヒマンは、第二次世界大戦中にナチスの親衛隊の中堅幹部として、ユダヤ人のホロコーストの計画を実行した人物です。アイヒマンは、強制収容所で数十万人かそれ以上の想像することすら困難な数のユダヤ人を殺害しました。アイヒマンの裁判を傍聴したアーレントは、彼の思考と行動を「悪の凡庸さ(Banality of Evil)」という有名な言葉で表現しました。

「世界最大の悪はごく平凡な人間が行う悪である。そこには動機も、信念も、邪心も、悪魔的な意図もない。その人間は人間であることを拒絶した者である。この現象を私は悪の凡庸さと呼ぶ」。

裁判を傍聴したアーレントが衝撃を受けたのは、想像を絶する数の人間を殺害したアイヒマンが、動機も、信念も、邪心も、悪魔的な意図も持たない、平凡な人物だっということでした。自分は組織の中間管理職であり、組織の目的を忠実に実行する義務を負っていた。自分ではなく他の誰が当時の自分の立場にいても、そして優秀な管理職であればあるほど、自分と同じことをしたはずである。従って自分に罪はない。アイヒマンはそう主張しました。

アーレントによれば、アイヒマンは思考することをやめた人間でした。裁判の中で難解なカントの著作を暗唱して自身の正当性を主張するほどの知識を有する人物が、人を殺すことの善悪すら判断できない、考えることをしない人物だったのです。彼はただ幹部の命令に忠実に、機械のように次々と収容者を殺し続けたのでした。

しかし、もっと身近な状況に目を移した時、社会や集団の中で暮らす私たちも、アイヒマンと同じように考えることをやめてはいないでしょうか。メディアやマスコミから流れてくる情報を、ただコピーアンドペイストしてそのまま誰かに流してはいないか。社長や部長が言っているから、ルールでこう決まっているからと、自分で内容の適否を判断せずに行動してはいないか。誰かが引いたレールの上をなぞったり、社会の常識や固定観念をただ機械的に受け入れてはいないか。思い当たる節はたくさんあるはずです。

与えられた情報に支配され他者の意見を鵜呑みにするのは、他者の人生を生きるに等しく、そこに自分の自由はありません。情報や他者の意見に接し、それを正しいと思うか、間違っていると思うか、共感するか、反発するか。結果として同じ行動を採るにしても、それが考えた結果の選択かそうでないかではまったく違います。

「最良の奴隷は自分を自由だと思っている」。

ゲーテのこの辛辣な言葉は、考えることが人間の自由と尊厳の原点であることを厳しく訴えています。

考えない方が楽だと誰もが思うかもしれません。しかしそれは、自らの自由を放棄する行為でもあるのです。

2.自由の前提その2:他者の存在

ロビンソン・クルーソーのように、無人島にたった一人で暮らす人間は自由でしょうか。人間が自由であるためには、たとえ制約があろうと他者の存在が不可欠です。他者とは自分を取り巻くあらゆるものです。自由は、単に束縛や制約のない状態ではなく、他者との関係において何が良いかを自ら判断することです。他者が存在しない状態は、束縛や制約もない代わりに自由もありません。

例として車と信号機の関係を考えてみましょう。

信号機は車の走行を制約します。自由に走り抜けたくても、赤信号になれば車は停止し、信号が青に変わるのを待たなければなりません。信号機は車の走行の自由を束縛しますが、信号機がなければ交差点に車が殺到し、事故や渋滞が発生して、予定の時間に目的地に到着できなくなります。信号機が秩序を保つことによって、車は予定通り目的地に到着する自由を手にするのです。

信号機は、会社に置き換えればルールや制度です。社員一人ひとりが自ら判断し適切に行動するには、一定のルールや制度が不可欠です。人数が少ないうちは、ルールや制度がなくても自分の目で状況判断し、曲がったり停止したりすることができますが、社員が一定数を超えると信号機が必要になります。これは、ベンチャー企業が大きくなり始めた時によく起こる現象です。

車の運転では、運転手は信号を見て進んだり停止したり、車間距離に応じて速度を上げたり落としたり、バックミラーやサイドミラーで他の車や通行人や障害物を確認します。時間通り目的地に到着するために、運転手は最適なルートを選び、交通ルールを守り、様々な周囲の情報にアンテナを張り巡らして適切に車を制御します。それらはすべて運転手の判断による行動です。これが「大きな自由」の意味です。運転手は、周囲の物や人、他の車との距離や、天候や道路の状態によって、自らの行動を決めるのです。

このように、自由の前提には他者の存在があります。人間は、他者に囲まれ、自ら選択して他者との関係を調整し、大きな自由を手にするのです。

3.自由の前提その3:ルールの裏にある規範

国家には法律があり、会社には就業規則があり、学校には校則があります。集団に所属する者にはルールを守る義務があり、ルールを破れば例外なく罰則を受けるのが原則です。

しかし、ルールは時代や場所によって変わります。かつては当たり前に行われていた奴隷の売買は禁じられ、身分制度も廃止されました。人間には基本的人権があると考えるのが近代以降の社会のコンセンサスです。銃の保持は、アメリカでは個人の安全を守る権利ですが、日本では他者を害する危険な凶器として禁じられています。昭和の時代には当たり前だった上司や先輩の厳しい叱責はパワーハラスメント行為として禁じられるようになり、コロナ禍で在宅勤務が導入され、就業規則も変わりました。

ルールは守られねばなりませんが、重要なのは、ルールが作られた背後にある社会のコンセンサスと普遍的な規範を考えることです。

刑法第199条の「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」という条文の裏側には、「人を殺してはならない」という社会のコンセンサスがあり、そのコンセンサスを形成したのは「人命は尊い」という普遍的な規範です。

ルールの裏にある普遍的な規範

パワーハラスメントを禁止する背景にも、「パワーハラスメントは良くない行為である」という社会のコンセンサスがあり、その基にあるのは「人はみな対等である、人の尊厳は守られるべきである」という規範です。

普遍的な規範の上に、時代や場所に応じて社会のコンセンサスが形成され、それが法律の条文となり、人々を拘束するのです。

アイヒマンは、ユダヤ人の抹殺というヒトラーナチスのコンセンサスに従って行動しました。自分は命令に忠実な善良な人間である、自分の立場にいれば誰もが同じことをしたはずだ、従って自分は無罪である。彼は裁判でそう主張しました。アーレントが厳しく糾弾したのは、命令に従うのが正しいというアイヒマンの薄っぺらな思考回路であり、「人命は尊い」という普遍的規範が抜け落ちた人格でした。

「ルールで禁止されていない」、「ルールに違反していない」。

このような抗弁を私たちは日常よく耳にします。法律に触れなければよいという考えは、アイヒマンの思考回路と変わるところはありません。

人間の行為のすべてを逐一法律で規定することはできません。法律に定めのない領域を、普遍的な規範に照らしてその是非を判断する。それは人間の自由を担保する重要な行為なのです。

4.自由の前提その4:貨幣と言語

かつてラテン語でフォルム(Forum)と言われた市場は、人々が物資や情報を交換する「公共の広場」でした。貨幣による経済活動と言語による政治活動が、人間の文明を高度に発展させました。

その後、フォルムはマーケット(市場)とフォーラム(公開討論場)の2つの意味に分かれました。現代は、マーケットに人があふれ、フォーラムが閑散としている時代です。経済学や経営学が利得や効率の視点から社会を論じ、真偽や善悪を考える哲学や倫理学は社会の片隅に追いやられています。

市場の時代の貨幣と言語

マーケットは計算はしますが、真偽や善悪は判断しません。貨幣で計れるのは量的価値であり、質的価値は人間が言語によって意味を問うことによって把握されます。

計算か、意味か。両者は二者択一の対立概念ではありません。貨幣が利得や効用の量を計り、言語がその意味を問う。両者はそういう関係にあり、貨幣も言語も、ともに人間の自由に欠かせない重要な道具なのです。

「希望のマネジメント」はこの両者のバランスを回復する仕事であることを、次章から、会社、組織、労働など、テーマごとに考えていきます。


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