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不要な努力


"努力"という単語が使われる時、概ねポジティブな文脈だ。

「努力は必ず報われる」AKB48の総選挙で一期生の高橋みなみさんが壇上で行ったスピーチは当時とてつもなく勇気をもらった。

学生時代、勉強や部活、委員会どれも楽しいことばかりではないけれど、きっといつか役立つと思って最大限の"努力"をした。"努力"は何があっても自分を裏切らないと考えていた。困難なことから目を背けない"努力家"である自分が好きだった。

会社員になり沢山の理不尽に直面した。自分の感情を抑えこんで、求められている最適な行動を取ることは日常茶飯事だ。本来なら真っ向勝負したい所も、立場や会議の残り時間を考慮して穏便に済ます。出世階段を登るために敵を増やさないようにする。嫌味を言われても気にしていないフリをして働く、それを"努力"と捉えていた。

がしかし、一つ抜けていた観点があった。

本当に努力すべき対象なのか?という点だ。

知らず知らずのうちに何事も途中で投げ出すことは悪だと信じ込んでいた。
でも身体を壊しながら代替のある仕事を続けることに、故意に他者を傷つける人との関係を継続することに、価値があるんだろうか? 死に際に走馬灯としてよぎってきても後悔しないだろうか?

どうやら私は一生懸命不要な努力をしていたようだ。


「成功する人は努力をしている」
これは真。アスリートもビジネスマンも運だけでなれるものではない。きっと並々ならない努力をしている。

ただその逆は偽だ。
努力をしている人は成功するわけではない。成功するためには自分のゴールにあった努力が必要だ。

時に勇気ある撤退は英断にもなる。
困難に立ち向かい続けることを神格化してはいけないと改めて肝に銘じる。

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