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デカルトを連想させる方。

ユリシスさんの記事を拝読しました。

Xで有料(BLUE)申込をし、長文ポストが投稿可能になったので長めのポストをいたしました。以下は、そこからの転記と加筆修正。 

Cogito,ergo sum. 我思う故に我あり。

ルネ・デカルトの言葉より

上記記事より引用します。

全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum。カール・マルクスの言葉)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。

我思う、ゆえに我あり Wikipedia より引用

私とは何か。何を思いどう生きるのか。この命題は哲学者が独占しているのではありません。私たち全てに共通する大切なこと。占星術はミステリアスなものではなく、一つの分析学であり統計学でもある。そして、相談者の心を受け止めるために、心理学的要素や哲学的思考を内包する。門外漢ながらそう感じます。

ここで、ユリシスさんの記事より引用を。決して形而上的なことを仰っているわけではないと思います。

いきなり高次元に行きたがるのが私たちの悪い癖です。自分の闇はなかったことにして自分を美しい存在に仕立て上げたいのがいけないところです。いきなり高見に行こうとしてはいけないんです。だから海王星と月に騙されてきたんです。自業自得でしかありません。自分で考える。自分で求める。つまり、自分の幸せくらい自分で責任とれということです。自分の感情くらい自分で癒せやということです。

私なんていないだろ ユリシス さま
2023年10月5日 12:41 記事より引用

ユリシスさんの力強いお言葉を拝読し、1人の詩人を思い出しました。茨木のり子です。みなさまも『自分の感受性くらい』をご存じかと。文学に転じてしまいますが、文学と哲学は隣同士、同じ人文学ですので。


さて。私の些末な思考癖にひとつの区切りを付けようと思います。

I am only what I have perceived, when my knowledge dissipates, I also dissipate.
私は私が認識したに過ぎない、私の認識が散逸したとき、私も霧散する。

上記は春永睦月流の強引解釈です。
自我とは何か?をずっと考えています。考えてばかりではないのですが、思考をゼロにもできぬまま普通に暮らしています。無駄な思考を抱えつつ。

ですが、無駄ではないとも思うのです。日々に振り回され「こんなはずじゃなかった」と嘆く私、偽りの月。そんなはずもこんなはずも、ありゃしないのよ、私。全ては起きうるべくして起こるもの。受け入れて、素直に助けを求めなさい。きっと大したことではないのだから、私だけがそう思っているだけで。優しい人たちは、辛抱強く私の傍らにいてくれる。私が求めてきたら、その手をすぐに取るために
私は私の偽りの月にそう語りかけています、日々。

最後に、思想家の女性をイメージしたBingクリエーター生成のAI画像を貼り、拙い記事を終わります。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

和風。樋口一葉が思想家になったみたい。
こちらはデカルトさん風に。


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