【読書メモ】自殺のサインを読みとる 

読んで感じたこと考えたことをピックアップしてここに残す

第1章 日本で今何が起きているか

◆自殺が急増している
特に中高年は自殺のリスクが高く(不況に関係なくライフサイクル的にも自殺リスクが高い),今後日本は高齢化社会になっていくことで高齢者の自殺が問題となってくるであろう

まず感じたこととして,自殺はどの世代にも生じうるが世代によってその理由や意思決定までに要した時間は大きく変わってくるだろう。今まで26年生きてきた印象として若者は変化の目まぐるしさに耐えきれない時や,目の前の事実に耐えきれないと感じた時に【死】という言葉が頭をよぎるような気がする。そのため,中にはそうでないものももちろんあると思うが,衝動的な自殺が多いような印象。
対して中高年の自殺は少し毛色が違う気がしていて,変わらない未来への絶望であったり,確実に死が近づいてきた年齢となってきた際に自分自身を見つめることによって生じる自殺というのが増えるのではないかと感じる。
それゆえに中高年の自殺はより考え考え考え抜かれたものが多いように思える。
それゆえに,未然に防ぐことが難しそうだと感じる。

◆国による自殺の違いは大きくは存在しないが,心中や引責自殺は日本の特徴の一つであると言える。無理心中を図った母親は海外では殺人犯扱いされるのに対し,日本では同情の声が集まることが多い。また,スキャンダルなどがでた際に,日本人は無実であるのに汚名を着せられたことや組織に迷惑をかけたことに対する責任をとるという自殺が発生するがそういった考えは海外にはあまりない。

この章を読んだ時に,自分は比較的海外思考だと感じた。自分は生まれも育ちにも日本人だが,自分がやっていないことに対してはやっていないと主張するし,やっていないのに組織に迷惑をかけたとは思わないであろう。どうりで日本社会の中で生きづらさを感じるわけだ。しかしいわゆる日本人の特徴を想像するとこういう結果になることは容易に想像できる。それに偉そうにいっているが海外の人に比べれば自分も日本人的精神を持っているのだろうし,【責任を取る】とは何に対して責任を取ろうとしているのか,取ることで誰かに何かのメリットが生じるのか?を冷静に考えることは必要だと感じる。死なれたところで困るだけだという組織だってたくさんあるだろう。一部の裏社会のことは存じ上げないが,少なくとも自分が生きている世界においては,死ぬくらいなら人生立て直せときっと思ってくれると信じたい。

第2章自殺を引き起こす心の病


◆自殺をした人の9割がなんらかの精神科の診断が出る

この現状は,いかに日本社会が精神疾患というものに対して理解がないかを表しているように感じる。日本人はそもそも全体的に真面目な国民であり鬱病をはじめとしたなんらかの心の問題を抱えやすい立場にあると思うが,その真面目さゆえにそれを認めることが素直にできない。
まだできる,頑張れると思ってしまう。周りも「それは甘えじゃないか」とか「まだ大丈夫だろう」と判断してしまいがちなのが現実ではないか。
こういった社会ではやはり心の問題は見てみぬふりをされてしまいガチだし,心が病んでいるという自覚があってもそれは自分自身のマインドの問題だから病院に行くような話ではないとか思ってしまうと気づいたら自分では取り返しのつかないことになっているというのがよくあるパターンなのかなと思う。そもそも自分をコントロールする脳がやられてしまっていては気持ちでどうにかなる問題ではないというのにまずは意識を向ける必要があると思った。

◆統合失調症の自殺者は,妄想や幻覚による突発的な死ももちろん多いのであるが,統合失調症という病気に対する社会の偏見や差別によって悩み,死に迫られる人もたくさんいる

統合失調症に限らず,心の病を抱えていたことは社会に受け入れられていないのが日本社会の問題であると思うと同時に,心の病を抱えていることがあった人=今後もそうなるのではないか,それによって自分が不利益を被るのではないかと思うのは比較的共感しやすいとも思う。
さらに統合失調症の人は,度々ニュースになる精神病の人の殺人といったものからくる偏見にも晒され,加えてやはり人間関係を築くのが苦手であることから復帰した後でも社会で生きていくことに苦労するのは想像に容易い。
正直こういった自殺をどうすれば防ぐことができるのか答えはわからないし,いい案も思いつかない。ただ日本の未来を作るのは子どもたちであるから,小学生などの子どもたちと交流する場などはもっと作っていって,将来的に長期スパンでこういった心の病の理解のある国を作っていくということも検討していく必要があるのかなと思う。

第3章自殺の危険因子と直前のサイン

◆精神科医のアイゼンバーグは自殺を孤独の病とよんだ。全体的に未婚者や離婚者の方が既婚者よりも自殺率は高い。しかし,表面上は家族がいてもその中で孤立している可能性もある。家庭でも職場でも学校でも周りから十分なサポートが得られない人は自殺のリスクが高まる

自殺は孤独の病であるという考え方は納得がいく。この孤独は決して周りに誰もいなことだけを意味するのではなく,周りに誰かいたとしても自分のことを受け入れてくれない,認めてくれないといった疎外感のことを意味するのだと思う。少し前までは,結婚はするものといった風潮があったが,今は結婚しないという選択肢も受け入れられるようになってきた(実際のところ不明だが)と思う。そういった意味では,自らあえて未婚者として歩んでいくということは決してマイナスではないのであろう。そういった人が増えればそういった人同士の繋がりができて孤独ではなくなるだろう。むしろ,既婚者であるが家庭の問題に悩んでいる人の方がよっぽど危険であると思う。家族はどんなに苦しくても基本的には離れることのできない関係であるし,家族内で問題が起きれば自分の家が居場所ではなくなってしまう,帰りたくない場所になってしまうから。統計だけを信じずに現場に目を向けることが必要だろう。


◆喪失体験をした人に自殺のリスクが高まる。しかし,その人にとっての喪失体験という視点で捉えることが重要である。同じペットを失った人であっても,そのペットと2人だけで暮らしていた老人の体験と家族を持っている人の体験ではその意味やショックの大きさは異なってくる。

この発想は意外となかったと思う。確かに言われてみれば当たり前のことなのであるが,自分の中にすっぽりと抜け落ちていた観点である。家族がなくなれば誰でもショックであるし,辛いのはみんな同じだと感じてしまっていたところがあったが,介護に疲れてしまった中年期の人にとってもそうなのか?虐待を受けていた人にとって虐待された対象の死はどうなのか?同じ祖母の死でも,祖母と2人きりで暮らしていた人と遠方に暮らしていて年に数回会うだけの人では感じ方も大きく異なる。一般的に考えたら自殺するまでではないだろうと思うようなこともその人にとっては生きる意味を失う体験になっている可能性も全然あるということを学んだ。

第4章自殺に追い込まれる人の心

◆マルツバーガーによれば自殺に密接に関連する要因に,深い孤独感,無価値観,極限の怒りがある。これらには子供の発達期にどのように不安や恐怖の体験を克服してきたかが関連している。フロイトによれば,不安を適切な形で母親に軽減してもらえなかった乳児は自分の要求が満たされないと身体への危険やそれに伴う苦痛に満ちた感情を回避できずに,かえってそれに向かって突き進んで行ってしまう傾向があると述べた。自殺の危険性の高い人間の超自我は極めて攻撃的である。

この話を読んでいると,現在週1で家庭教師として家庭訪問しているある女の子のことが頭に浮かぶ。彼女もまた母親の産後うつでまともに育児を受けられなかった子どもである。幸い近くに祖父母が住んでおり,学校帰りから夜までの時間を祖父母の家で過ごしている。この子と接していると,やはり不安や不快な感情を自分の中で処理できないのだろうなというのが伝わってくる。ちょっとしたことでプチ癇癪を起こしてパニックになることもよくある。この子の内側に激しい怒りを感じる。この本を読んでいると,この子が将来成長していった時に,ちょっとしたトラブルで危険な方向に進んで行ってはしまわないかと心配になると同時に,こういった子に対して成長してからの自殺を防ぐにはどういったサポートが必要なのだろうかと疑問に思う。生育環境は時間を戻すことはできず,こういった環境で育ってきてしまったことを修正することはできない。
こういった子どもにわれわれ専門職は何かできることがあるのだろうか。私は今週1で遊んだり勉強したりしており,それも一つのサポートになっていると思う。心理士の先生には片足を突っ込むのは危険だと言われているが,この子の未来に少しでも希望となれるのであれば会い続けたいと思う。それとともに,いつまでも会うことができないから,どう離れていくのかも考えていかないといけないと思う。この子が自分1人の力で不安や恐怖を抱えられるようになるには何が必要なのか。答えはまだ出ていない。

◆自らを慰めたり自尊心が高められないため,それを与えてくれる人しか必要としないというケースもある。そして自分が必要とするものが一度手に入るとそれに関心が奪われてこれまで依存している相手に対してほとんど興味を示さなくなる。こういう傾向が進んだ人は一時的な肉体関係で満足が得られればそれで十分なことが多い。

私の友人に,まさしく手に入れてしまうと飽きてしまうというタイプの子がいる。その人は,他人の好きな相手を手にいれたくなってしまうということも言っていた。その話を聞いていた時は全く理解できないと思っていたが,この本のここを読んだ時に,「なるほど」と腑に落ちる部分があった。その子にとって,自分に振り向いてもらうことが重要なのだろう。だからこそ,他人の彼氏を奪うという行為や不倫関係を結ぶという行為は相手がいるのに自分が選ばれているという優越感から自分自身の価値を高めることにつながっているのであろう。彼女はこれだけでなく,「仕事への依存」という観点でも当てはまっている。仕事によって他人に賞賛されることであったり仕事そのものに自分の存在価値を重ね合わせているように思える。私は彼女と高校時代仲がよく,今でも会う関係だが,彼女が幼少期に虐待を受けていたことをついこの前知った。その事実も含めて「ああ,なるほど」と感じるとともに,本当に生育歴がその人を作り上げているのだと肌で感じ恐ろしさすら感じている。

◆自殺はその人物が生涯にわたって発展させてきた非適応的な行動の最終的な結果であることがしばしばである。そのため,自殺の予防にはその人の生活史を理解しその絶望的な感情を十分に理解する必要がある

別の観点からとらえると,たとえ今現在は自殺する気配のない人間であっても,実はその積み上げてきたものからはある意味突発的と思える自殺が生じかねないということだ。自殺の予防は,何かしらの心の問題を訴えかけてきたタイミングで行われることが多いだろう。例えば心療内科を受診してきたり,不登校になって何らかの機関を訪れたり,休職をしたり。こういったメッセージが見て取れる対象に対しては予防をすることが可能となってくるであろう。しかし,特に生活に支障が出ていない,普通に生きていると思っている人たちについても本来は自殺の予防は何かしらの形で提供されるべきなのではないかと思う。第1章でも述べられていた通り,日本はただでさえ自殺率が高い国なのだ。ストレス社会と呼ばれている現代において,何かしらセルフケアができる方法がないものか。

第5章ライフサイクルと自殺


ひきこもりにとって最も恐ろしいのは他人の輪の中に入ること。でも本当は他人と関わりたいと思っていることが多い。その原因としては彼らに共通する特徴がある。例えば0か100で物事を捉えるところや、極端に自己評価が低いところ、他者の評価に敏感で人前で失敗することを恐れているところ、中には醜形恐怖の人の少なからずいる。

ひきこもりはそもそも臨床場面に現れることがとても困難であり、従来の面接室という枠にこだわった場では取り扱えないのであろう。このような人たちの中には意志を持ってひきこもっている人も多いだろうが、どうすることもできず他の選択肢がなく立ち止まってしまっている人も多いのだろう。こういう人たちに寄り添うためにはどうすればいいのかを考えた時に、SNS相談という最新のツールは一つ可能性であるように思う。ひきこもりの人たちの多くはネットリテラシーが高くインターネットを自分の居場所としている人も多いだろう。彼らがもし現在困り感を抱えていなかったとしても、SNSで話を聞いているうちに「病院に行ってみようかな」であったり「外に出てみようかな」と思うことにつながるかもしれない。ひきこもりの支援は非常に蔑ろにされてきているように思うし、逆にここから先の臨床の発展の可能性であるとも考えられる。

◆1970年代を生きた若者が自分たちの独自性を求めていたのに対し、現代の若者は「みんなと同じ」でないと不安になってしまう。今のひきこもりがちの若者が30年前を生きていたら同じ悩みを抱えなかったのではないか

これについてはそうなのだろうがそれで昔の方が良いとは言い難い。確かに全体として30年前の方が独自性を求める文化が強かったのは事実かもしれない。それは社会が今よりも閉鎖的であり、多様性がない時代だからこそむしろ、若者はそのままに生きているとみんなと同じになってしまうという状況に危機感を覚えていたのであろう。現代はもっともっと情報が飛び交うダイバーシティな社会になってきており、最初から選択肢がたくさんある。「こう生きなさい!」と圧をかけられるとそれに争いたくなるが「自分の自由にしていいよ。大海原に漕ぎ出しなさい」と言われたら不安に思うのは当然であろう。
選択肢が無限な時代だからこそそれに不安を感じる若者が増えているということなのではないか。それは社会が広がったことによる代償だろう。

◆日本は負け=0という文化が深く根付いており、ひきこもりは潔い負けということを学んでこなかったのかもしれない。勝ちにこだわりすぎることはこの先の人生の柔軟性
を失うことになるのではないか。

確かにそれはそうだと思う。私自身も勝つことにこだわる一面や恥を晒したくないと思う部分は少なからずある。日本という文化がそうなのかはわからないが、江戸時代の負けたら切腹といった文化はある意味負けたものは0になるという考え方の根本かもしれない。これも一種の潔い負けのあり方がと私は思うが。とにかくひきこもりの若者が自分の負けることに対する極端な不安から、戦わない選択肢、つまり人と関わらずに引きこもることを選んでいるという話は一理あると思う。そういう若者はいろんなルーツからその結果に至っているのだろう。発達障害といった特性からかもしれないし、環境がそうさせてきたのかもしれない。まずはひきこもりがどうしてそういった考えを持つに至ったのかというルーツを丁寧に聞いていくことがはじめの一歩のように思う。


◆高齢者では認知症が始まったばかりの頃に抑うつ状態になることもある。身体的治療も増えて、その副作用などで意識が曇ることもあり、それが自殺のきっかけになることもある。

高齢者はなんとなく人生の先輩であり悩み事なんてない、むしろ若者の悩みに対して「歳を取ったらいちいちそんなことで悩まなくなるよ」と励ましてくれる存在のイメージだが実際の数値を見るとむしろ高齢者の方が自殺の既遂率は増えている。高齢者は様々なリスクを負っているということをつい忘れてしまいそうになる。私たち心理職もなんとなく将来性のある思春期に目を向けがちで(実際に私もそうで)生い先短い高齢者の心のケアを忘れがちであることは否めない。実際の高齢者のケアとなると生活やお金の問題など介護の領域が目立つからなのもあるかもしれない。生い先が短いからこそ残された人生を悔いなく生きて欲しいという気持ちはある。最近実習に通い始めて、若い頃からずっと精神科に通っている60代70代の方とお話しする機会が増えたことも考え方の変化につながっているのかもしれない。

◆子どもの自殺は必ずしもいじめだけが問題ではない。同胞の死を受け入れることができず、自分が代わりに死ねばよかったとか自分のせいでとか思う子どもも多い。表面的にはいじめが原因のように思われる自殺であってもその家族背景などを十分に見ていくとより複雑な背景を持っていることも少なくない

子どもの自殺と聞くと確かにまず初めにいじめが思い浮かぶ。実際にいじめを受けているケースもあると尚のこと、それが原因で自殺に及んだと思ってしまうし、子どもたちは(子どもだけではないが)恐らく本当の自殺の原因を自らの口から語ることは少ないのではないか。自分でもわかっていないこともありうる。このような自殺未遂をそのままにしておくことは本人にとっても良くないことであるし、専門家や家族が本人の思いを理解できていなければそれは本当の意味での支援には繋がらない。子どもの自殺を見るときはその家族までを見ていくことが大切なのだとわかった。

◆自殺の危険の高い子どもの背後には自殺の危険の高い親がいる。自殺の危険の高い親の背後には自殺の危険の高い子どもがいる。

どんな問題にも人間関係の問題が付き物であり、その最たるものが家族問題だと思う。自殺に至るまでの深い絶望感や孤独感が子どもの中に生じているという事実を考えた時に、本来であれば子どもを守り支えるのが家族であるが、それがうまく機能していない可能性は非常に高いと思う。極論、同じいじめを受けたとしても自殺まで発展する子どもとそうでない子どもがいるだろう。その違いは単にその子どもの特性のみではなく、子どもの環境の違いであろう。あからさまでない場合、家族は自分のことを度外視して子どもの自殺行動や問題行動を見るだろうが、家族に当事者意識を持ってもらうことが援助で必要なポイントな気がする。それをわかってもらうことが一番専門職の腕の見せ所だろう。

◆青少年の自殺に関する教育にはプリベンション(一次予防)、インターベンション(二次予防)、ポストベンション(三次予防)があるが日本においてはインターベンションが主流でプリベンションとポストベンションはまだ十分とは言えない。
思春期の子どもたちは圧倒的に同年代の子どもたちに悩みを打ち明けるが、打ち明けられた方がそれをどう受け止めたらいいのかがわからないということが実際のところであり、自殺予防教育の必要性が問われている

私も高校生を対象とした当事者研究に関する調査の中で、高校生(特に女性)は友達に悩みを打ち明けることが多いと知った。自分も高校生のころを思い返すとあの頃の友達という存在の重要性は極めて高く、家族に対しては素直に話すことが難しい時期であるといえよう。家族に関する問題を抱えている場合はなおさらである。
友達に悩みを打ち明け、友達がそれをうまく受け止めてくれたらきっとこの年代の自殺リスクは大きく減少するだろう。最近まで、心理職の仕事は専門家として本人に寄り添うことだけだと考えていたが、実際本人にとっては週1や月2であう他人の専門家よりも心を許した仲間の言葉の方がよほど響く。結局は日常の中で本人は生きていくのであって、最終的には日常でうまく生きていけるようになっていかないといけないのであるから、それをサポートするという意味では心理職の果たす役割は相当に広がる。
専門職が専門職としてどういう関わりをしていくかについて学ぶことももちろん大切であるが、身近な人がどうやって寄り添っていくとこのクライエントには良いのかを考えていくことも重要な仕事の一つであろう。寄り添い方に正解があるわけではなく、本人やその周りの環境との間の相互作用の中で決まってくるものであるから、そのためにまず専門家ができることとしてはその人やその周囲のことをよく知って理解することにあると言えるだろう。

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