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人間ヴェルディ: 彼の音楽と人生、 そして その時代 (15)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年


第二部 ヴェルディアン・オペラ確立期


目次
第15章:オペラ「群盗」初演のためにパリ経由でロンドンへ(33歳)
アンドレア・マッフェイ。ムッチオ同伴でロンドンへ。ヴェルディだけパリに2日滞在。ストレッポーニを訪問。彼女との関係を分析。彼のロンドンの印象は? 初演は成功。「群盗」の分析。
【翻訳後記】
ストレッポーニとのこと。シラーの戯曲「群盗」。You Tubeへのリンク3本。ヴェルディたちが乗ったスイスのルツェルン湖の湖上蒸気船に私も。2日間のルツェルン観光を楽しむ。

(順次掲載予定)
第16章:パリとミラノ
(1847−1848;33歳から34歳)

オペラ「群盗」初演のためにパリ経由でロンドンへ( 1847年 33歳 )

ロンドンで予定された「イ・マスナディエリ(群盗)」の初演は、ヴェルディにとって、最初のイタリア国外の初演公演だったので、彼自身、いつも以上の興奮ムードに浸っていた。ロンドン市にとっても、初めてイタリアン・オペラの巨匠を迎えるという同様の熱狂的ムードがあった。ロッシーニも、ベルリーニも、ドニゼッティもロンドンに行っていない。ロンドン市民は特に偉大な声楽家を好み、歓迎するので、興行師たちは定期的に最高のスター歌手を招待した。しかし、興行師たちは歌い手にお金をかけるため、公演するオペラは他ですでに試された無難ものを選ぶのが普通だった。ところがラムリーはヴェルディに新作オペラの作曲を依頼し、さらに初演に彼が指揮をすることも契約したので、ロンドン市民の期待は大きく、熱狂的な態度で待ち望んでいた。

ヴェルディはミラノで殆どの作曲を終え、オーケストラ部分と詳細はいつものように劇場に到着してからすることにしていた。彼はセリフ台本代をマッフェイに支払い、さらに彼に「マクベス」の一部修正をやってもらったことに対して、金時計と鎖を贈呈した。脚本には彼の名前は出なかったが、実際には、彼は一部修正以上の仕事をした。あの夢遊病歩きのシーンは完全に彼が書き直したもの。ヴェルディの贈り物と支払いも、最初の約束をはるかに超えるもので、このことでマッフェイは、ちょっと当惑した。ヴェルディへの手紙に彼は、貴殿を怒らせることなくギフトを返そうとしましたが、その勇気がないので、いただくことにしましたと書いている。さらに「もし、貰わないといけないなら、受け取る楽しみを否定しないでください。それに、二つのことを約束してください。一つは貴殿の親切心、それによって私の心はなんと高揚したことか?それと貴殿の親愛心、これはまだ持っていてくれることを希望。私はお陰で少しばかり幸せな気分を味わっています。孤独というのは、エゴイストにとって、甘い感情ですが、それでも友情が必要で、特に貴殿との友情がもし取り上げられたら、私の心臓は張り裂けます。私に何かを頼む際、犠牲などは考えないでほしい。私の貧しいい才能と筆で、いつでも貴殿のお役に立てれば、と思っているのですから」と。

「マクベス」は初演後一年は、かなり成功していた。スカラ座を除いたイタリア中の興行師たちは、契約を取ろうと必死で、ロンドンからラムリーは、もし英国での独占権利だったら、競争相手のコベントガーデンの5倍の金額を支払うと言ってきた。しかし、著作権を持っているリコルディ社は、すでにコベントガーデンと契約を結んでいて、その取り消しはできなかった。ヴェルディはできればラムリーに「イ・マスナディエリ」で、同様の機会を提供しようと考えていた。

彼はムチオと5月の最終週にミラノを発った。この旅行はヴェルディにとってもムチオをとっても、初めてのパリとロンドン行きだった。ヴェルディも「ナブッコ」の公演でメレリとウィーンに行った時以来の、初めての外国旅行だった。当時の彼のフランス語は流暢ではなかったが、まあまあ役に立つくらいだった。が、英語とドイツ語に関しては全くできなかった。ムチオにしても同様で、彼のフランス語はヴェルディより劣った。

彼らはストラスブールからパリまで馬車で行く予定だったが、乗り継ぎがうまくいかず、乗り損ねた。そこで、ムチオによると、ヴェルディは気まぐれに、ライン川をブラッセルまで行くことに決める。パリに着いてすぐにバレッジに書いたムチオの手紙には、旅のことが詳しく書かれていた。旅行中にあちこちで見た記念碑の説明、ライン川はヨーロッパの大河の一つだとバレッジ知らせ、ナポレオンのフランス国にとって‘要’と言われた300万兵の軍隊が集合した平原などについても。ワーテルローからすでに30年経っていたが、ナポレオンの第二夫人のマリールイーザが、ウィーン会議で、彼らの故郷のパルマ公国の君主となったことで、ブセットの人々にはまだ身近に感じられる歴史的事件だった。ウェリントン公爵はロンドンにまだ健在していて、オペラ初演に出席した。彼に会うことで、ヴェルディとムチオは、ナポレオン時代を肌で感じる体験をする。

双方とも、この旅行でイタリアの悲しい政治的現実を思い知ることになる。ムチオはこう書いている:私たちはこうして、幾つもの州や王国、公国を通過しましたが、パスポートを見せろと言われたことは一度もありません。荷物の検査はベルギーの1回だけです。イタリア内の旅行と大違いです。数分おきにパスポートを見せ、しょっちゅう、トランクを開けて中身を見せなければいけないイタリアは全く、近代から遅れています」と。彼らは大型蒸気船にも乗り、汽車の長旅を経験した。ムチオはさらに続けて:コロンからブラッセルまでの間は山岳地帯で、なんと24のトンネルを通過しました。トンネルは5マイルとか3マイルとか長いので、車内にはいつも電灯がついています」と。そして、彼は手紙の最後にそれぞれどの乗り物で何時間かかったかを記載している。


  • ミラノからフィオラまで馬車 : 30時間

  • フリューエレンからルツェルンまで湖上蒸気船 : 2時間

  • ルツェルンからバーゼルまで馬車 : 11時間

  • バーゼルからストラスブールまで汽車 : 5時間

  • ストラスブールからケールまで馬車 : 3/4時間

  • ケールからカールスルーエまで汽車 : 2時間

  • カールスルーエからマンハイムまで : 汽車 : 3時間

  • マンハイムからマインツまでライン川を蒸気船 : 4時間

  • マインツから船でライン川のコブレンツ、ボン、コロンへ : 9時間

  • コロンからブラッセルまで汽車 : 11時間

  • ブラッセルからパリまで汽車 : 13時間


合計 : 91と3/4時間

経費は4倍でした。ストラスブールからパリまでは普通60フランですが、私たちはライン川を行くことで4倍かかったのです。
エマニュエル・ムチオ

追伸:書き忘れたことですが、ワーテルロー、ナポレオンが敗戦したところには、英国が立てた英国勝利の記念塔が(フランス国内に)あり、屈辱的思いで見ました。


ヴェルディはパリに2日残り、ムチオを先にロンドンのラムリーの元に送った。ロンドンでは、ラムリーが約束したジェニー・リンド(超有名なスエーデン人のソプラノ歌手)が新しいオペラはやりたくないと言ったことが伝えられていた。彼が現れないことで、ヴェルディはラムリーに圧力がかかれば良いと考えた。

「マスナディエリ」初演の前数ヶ月に、ヴェルディがラムリーに書いた手紙は、かなり、手厳しい調子だった。4月には彼はルッカにこう書いた:どんな些細な失敗も私は許さないつもりです。私はこの演劇界でかなりひどい扱いを受けてきました。もしオペラが決まった時間に、決めた通りに上演されない場合は、私ははっきり言いますが、契約解除です」と。ロンドンに着いてから2、3日後、彼はマッフェイ伯爵夫人にこう書いた:確かに、私の到着は遅れて、興行師が文句をいうのは解ります。しかし、彼の言うことの一言でも私が気に入らなければ、私は10の回答を渡し、すぐにパリに向けて出発します。そのあと、どうなろうと構いません」と。

ヴェルディはアーティスティックな完全無欠を守るためには、お金を犠牲にすることをいとわない人間だった。が、この時は多分ただのむらきだったと思われる。彼は決して、ひどい扱いを受けていない。ラムリーはジェニー・リンドを確保し、バスには偉大なラブラーチェ、テノールには人気のガルドーニと、素晴らしいキャストを揃えていた。もし、どこかに失点があるとすれば、それは彼自身だった。その短気な気性が出たのは、多分ルッカとのやりとりを嫌っていたからだと思われる。ヴェルディが直接ラムリーと話せば、ミラノでもロンドンでもいつも問題は消滅する。もう一つの理由は彼が神経質になっていたこと。彼はこのオペラに神経をとがらせていた。彼は以前マッフェイに第2幕は全く冷血的だから、書き直してくれと書いている。彼は初めてのイタリア国外、それも言語がわからない国での初演公演に神経質になっていたのだ。どうやってオーケストラの面々や舞台の裏方に、言いたいことを伝えられるか?さらにこの長い旅行は彼の神経を鎮めはしなかった。産業革命の新しい発見、どんどん長くなるトンネル、発展する大都市、偉大な近代国家、などに、パルマ公国出身の彼とムチオは萎縮するだけだった。

パリの2日間、ヴェルディはエージェントのエスカヂェに、誰にも紹介しないでくれと頼んでいた。彼はパリ・オペラ座を見に行った。1週間後にロンドンから、マッフェイ夫人に書いた手紙には、歌い手たちはひどく、コーラスは全く平凡、オーケストラも平凡の域を超えていない」と。これで、彼は少し安心した。オペラ座がこの程度で、ミラノやフィレンツェやヴェニスと同レベルなら、ロンドンでも乗り仕切れると自信を持ったようだ。

彼はもちろん、演劇界で最も古く、最も親しい友人、ジョセッピーナ・ストレッポーニを訪問する。実はこれに関する確固たる証拠はない。が、状況からみて、確実だと思われる。なぜ彼はムチオを先にロンドンに送ったのか? なぜエスカヂェに誰にも紹介してくれるなと言ったのか?なぜロンドンからの出したいくつかの手紙には、何か起これば、すぐにパリに戻ると書いているのか? なぜパリ滞在は2日だけなのに、マッフェイ夫人に‘私はパリが気に入りました。特にこの国では自由な生活が可能な点に惹かれました。まだロンドンについては何も言えません。昨日到着したのは日曜日で、まだ誰とも会っていないからです’と書いたのか?

事実は少し違い、この手紙を書いた頃には、すでに彼はパリと同じくらいロンドンに滞在していたのだが、彼はすでにパリでは、自由な人生が可能で、ロンドンでは可能でないと判断を下している。到着したのが日曜日だったことは、パリの滞在とあまり違わないはず。多分に彼はパリでそこで生活している人から、パリの生活のことを聞いたに違いない。彼はパリには、エスカヂェ以外に音楽関係者も、また亡命中の政治家の知り合いも、ストレッポーニに以外にいない。もし音楽関係者または亡命者と話したとしたら、必ず、ミラノの友人に彼らの健康状態などについて報告しただろう。

ストレッポーニは、パリでの‘自由な生活’について語れるユニークな状況にいた。彼女はその頃までに、パリに1年以上住み、毎週2回、火曜日と金曜日に彼女が気に入った生徒だけに限って、レッスンをしていた。オペラの元花形歌手として、彼女は文学者仲間にも、社交界にも受け入れられた。例外は元‘女優’ということで、時代遅れの貴族社会だけは受け入れなかったが、彼女は全く気にしていない。パリでは気にしなくて良いのだ。最も興味深い人々は知識階級か、芸術家層で、サンジェルマン・フォーボールの貴族ではなかった。2つの世界は完璧に分かれていた。

ヴェルディはもちろん、ストレッポーニがパリにいることをずっと知っていた。しかし、彼は特に急いで会おうとしてはいない。彼はもともとパリに滞在する予定はなく、ストラスブールからライン河を下ることで、到着は遅れた。しかしパリに来たのだし、彼女がそこにいるのだから、彼は彼女に会うことにしたようだ。

男と女の恋愛がどう芽生えるのか、誰も知らないが、知的な女性の間では、男性は周りから圧力をかけられると、女性に救いを求めると一般に理解されている。ヴェルディはロンドンに乗り込むに当たり、ひょっとしてジェニー・リンドを失うかもしれない不安、オペラそのものの‘出来’についても、また英語圏で舞台を仕切る難しさなどで悶々としていて、予告なしに彼女のアパートを訪問したと思われる。そして彼女はそこで深い愛情に繋がる脈を感じとって、静かに家で語りあうことになったのでは?

ヴェルディとストレッポーニの関係が正確にいつ始まったかについて、意見が分かれる。関係とは、単に性的関係ではなく、深く精神的にという意味でだ。イタリア人の伝記作家たちは、全般に1842年から始まり、ミラノで続いて、ストレッポーニがオペラ歌手を引退し、パリに行って生活を立て直そうとした1845年だとしている。ヴィンセント・シーハン(米)はイタリア人作家説に同調し、さらに彼女がパリに行ったのは、女の知恵で、パリなら彼を惹きつけられると考えたからだとも、書いている。しかし、ウォーカー(米)の説は、彼女のキャリアの跡を追っていくと、この期間彼女とヴェルディが同じ都市にいたことはほとんどないので、情事を持つことは不可能と書いている。ヴェルディは彼女がパリに行ったことを知っていた。彼のエージェント、エスカヂェに紹介状を書いているのだ。しかし、ストレッポーニはパリに着いて、数ヶ月後、彼から連絡がないので、ジョヴァンナ・ルッカにこう書いている:ヴェルディはミラノなのかしら?彼の健康状態は今年どう?それから、ユーモアのセンスは? ユーモアのセンスがいいということは、健康状態がいい証拠」と。ここで彼女がヴェルディとの関係を友人にごまかそうとしているとは思えない。

この評伝本の説としては、関係は1847年の6月までなかったとする。ストレッポーニがパリに行ったのは、ヴェルディを取り戻そうとしたためでなく、単にこの音楽の都で生活維持が可能と見たからで、パリでは彼女は恥ずかしい親戚からも、私生児問題からも離れて、威厳を持って生きられる。それでもダラダラ続いていた二人の友人関係が、炎燃えたつ男女の恋に変わるには、何か特殊な状況が必要だとこの著者は考える。その状況はヴェルディがロンドンに乗り込む前、多少イライラしていて、気まぐれ的になれるときだったと思われる。タイミングはロンドンに行く途中で、決してオペラ初演を成功させた後の、ロンドンからの帰り道ではない。ラムリーは彼に高額なオファーをして、パリではその時代で一番重要な作曲家として、どこからも迎え入れられているのだ。

この不確かで、非常に私的な関係の始まりは、大都市のパリでは全く問題にならなかったが、後年、ブセットでは町の重大ニュースになる。

ジェニー・リンドが彼のオペラに確保されると、ヴェルディはすぐにロンドンに発つ。ムチオは小さなアパートを用意していた。3ベッドルームとメイドの代わりに、彼は2ベッドルームのアパートで、小さい方の部屋に自分が寝ることで節約しようと試みる。が、ヴェルディは節約は必要ないとした。双方ともロンドンの繁栄ぶりには、度肝を抜かれた。ムチオはバレッジにこう書いている:陸も海もスティーム・エンジンが活躍。蒸気機関車が陸を疾走し、蒸気船が海の上を飛んでいます。ロンドンのこの喧騒!この混乱!これに比べてパリは比べものになりません。人々は大声で会話し、貧乏人は泣いています。蒸気機関車と蒸気船がゆく中を、馬上の人もあり、馬車の人も。歩く人も、それぞれが、皆気が狂ったように右往左往しています。アントニオさま、想像できますか?」と。

ヴェルディはそこまで驚嘆しなかったようが、それでも非常に印象付けられた。彼は滞在についてこう友人に書いている:ロンドンの天気はよくないですが、私はここが気に入りました。ここは都市ではなく、世界そのものです。そのサイズ、その豊かさ、通りの美しさ、家々の清潔さ、これが皆比較できないほどです。驚いて立ち止まり、英国銀行の建物や、港を見ると、この栄華の中で、自分が小さく感じられます。ロンドンの郊外や近郊地域も素晴らしい。私は英国的習慣を好みませんが、というより、イタリア人と合わないようです。イタリア人がイギリス人の真似をするのは、全く滑稽です。」と。

ヴェルディにはまだオペラの作曲が未完成だし、劇場でするべきことはたくさん残っているので、いつものことだが、彼はほとんどの招待を断る。が、ある時ラムリーの招待を受け、晩餐会に参加したところ、そこで、ルイ・ボナパルト皇子に会う。フランスから亡命中の、のちのナポレオン3世(父親はナポレオン1世の弟、母親はナポレオンの第1夫人ジョセフィーヌの娘)である。ルイ皇子はピオ・ノノ法王を個人的に知っていた人の一人。ピオ・ノノはグレゴリー16世に反抗してボローニャで1831から32年にかけて起こった蜂起のリーダーの一人で、当時はイモラの大司教だった。そこからルイ皇子が亡命するのを援助した。ヴェルディはまた、イタリアからの訪問者が皆するように、亡命中の革命家マッツィーニにも会って、イタリアの政情について話した。

初演は成功だった。新聞は熱狂的な反応を伝えたため、劇場に入りきらないほどの群衆が集まり、午後4時半ごろ、彼らは劇場のドアを破って、劇場の中になだれ込んだ。その数時間後、有名人、ヴィクトリア女王、アルバート皇太子、ウェリントン公爵、ルイ・ボナパルト皇子、それに議会の主要メンバーたちが入場、着席する。ヴェルディは指揮をして、カーテン・コールで何回も舞台に呼び返された。翌朝とその週、批評が新聞や雑誌に載って、全般に好意的だった。しかし批判的だったものもあった。パンチ誌は、このオペラはとても騒がしく、バレエになるまで、各幕ごとに暴動が起こったようだ。そしてアセンニウムのヘンリー・E・チョーリーは「これは女王閣下劇場で上演された最悪のオペラである。ヴェルディにとうとうケチがついた。他のイタリア人作曲家に道を明け渡した」と。

チョーリーは間違ってはいなかった。「ディマズナエリ」は彼の良いオペラの一つではない。ドラマとして、「マクベス」のような面白みに欠けるし、メロディは「エルナニ」より劣っている。マッフェイは脚本を書いたというより、翻訳して、最近ミラノで観たオペラのような構成に仕上げただけのよう。結果は平凡な脚本で、登場人物は「エルナニ」のように、一人ずつ、登場して、スロー、ファーストのアリアを歌うという形になっている。ヴェルディは「フォスカリ」、「アッティラ」、特に「マクベス」で、違うスタイルのオペラを書き始めていたが後戻り。しかし音楽の後戻りは難しいらしく、「ディマズナエリ」の中の音楽は新しい音楽ではあったが、何か息が切れて、基準通りには書かれているが、それはまるで練習曲のよう。どうもマッフェイが創り出した登場人物はヴェルディを沸き立たせなかったようだ。特にスエーデンのナイチンゲール(=ウグイス。ジェニー・リンドのこと)のために書いたコロラチューラ(高音ソプラノ)のアリアで、練習曲風が特に現れる。ムチオがバレッジへの手紙の中で、彼女の声についてこう書いている:高い方の音には、多少のキツさがあり、低音の方は弱いようですが、訓練で高い音は柔軟性を持たせ、どんな難しいメロディーでもこなせる歌手です。彼女のトリルは近づき難いほどで、跳躍性は他に類を見ない優れた技術を持ち、技術的な面を聴衆に聞かせようと、彼女は過剰な装飾とトリルを入れて歌った」と。これは18世紀に流行ったスタイルで、1847年では時代遅れのものだった。しかしヴェルディは彼女の声を生かすために、そのスタイルのソプラノ用のアリアを書き、それを実現させるには、ジェニー・リンドの声が必要だった。皮肉にも、ヴェルディの創作能力はこのオペラでは、マッフェイの型にはまったセリフ台本と、ジェニー・リンドの非常に変わった声とに制限されてしまったようだ。

しかし、ヴェルディの他のあまり成功しなかったオペラにも見られることだが、この中には、美しい音楽と効果的な音楽が沢山ある。まず、プレリュードは、チェロの独奏が大部分を占め、とても美しい。そして、このオペラの始まりに、メランコリーなムード作りになっている。当時非常に評判になった。

アリアのいくつかはとても良い。特に恋人がまだ生きているとわかって喜ぶソプラノのキャバレッタと、最終幕のテノールとバスのデュエットもいい。最後の曲は非常にメロディックで、二つの声が素晴らしく引き立っている。ヴェルディのオペラによく見られる父親と息子のデュエットで、そこから、ソプラノが入り、時々バックに群盗のコーラスも入って、最終的な盛り上がりの3重唱になる。当時のヴェルディの看板的なシーンで、それぞれの声がアーチ状に歌い、絡み合い、全体にどんどん前進して、終わりに向かう。これを好まない人々は、まるでバレル・オルガンを巻き上げているようだといい、好きな人々はスリルに溢れていると言う。

場面の状況は音楽スタイルとあまり関係なく、一目瞭然なことはテノール役は失意のどん底、ソプラノは彼を励まし、最後には全て好転すると彼を励ます。テノールの父親のバス歌手はすでに希望を失っている。所々で群盗たちのコーラスが入り、彼らのリーダーとしての道義心を迫り、ソプラノには愛を訴える。ヴェルディはこの3重唱をテノールの途切れ途切れに歌うところから始めている。その後ソプラノが似たようリズムで歌う。二人のメロディーは最高に美しいとは言えないが、絡み合うことでその後に続くドラマを作り出している。

3重唱と群盗たちのコーラスによるフィナーレには、この時期ヴェルディがよく使い、彼の特徴的な手法になるパターンが見られる。それはどういうものかと言うと、全体の基本の拍子は行進曲の4拍子で、群盗のコーラスがそれに添い、そこに主人公二人の歌が3拍子で被さるように入るのだ。3拍子というのは、1、2、3と踊るワルツのリズム。4拍子の行進曲も前進を催すリズムだが、どうして3拍子のワルツではさらに前進のペースになるかは、聞く人の体の中に起こる現象かららしい。3拍子、4拍子を右足から歩き出す場合、3拍子の方が2拍子目での重心の移動が大きい。それを体が覚えているところから、オーケストラが4拍子の音楽を鳴らしても、聞き手は3拍子のメロディーを聞いているという現象が起こるのだ。

ヴェルディがどうしてこのリズムをあれほど好んだかはミステリー。1844年から1850年にかけて、彼はフィナーレによく使っている。こうしてヴェルディらしい音楽が入ったオペラが生まれていく。

【翻訳後記】

この章はヴェルディの個人的人生の転換期です。この後の人生約50年を共にしたジョセピーナ・ストレッポーニと深い関係になったのです。彼らの恋愛がいつから始まったかについて、彼の伝記作家たちはそれまでにいろいろな説を出していましたが、この著者ジョージ・マーティンはこの時、ロンドンに行く前、パリに2日滞在したときに始まったという説で、その心理状態を説明しています。私は彼の説に賛成です。オペラの都ではありませんが、大英帝国のヴィクトリア女王も参席なさるロンドン初演公演を前に、彼に多少の不安と恐怖感があったのは否定できないと思います(ナブッコの大成功からまだ5年!)。そんな時に演劇界に長く君臨して、酸いも甘いも噛み分けた彼女と再会。彼女は状況から彼の心理をよく理解して、よき聞き役またはアドヴァイザーになったことでしょう。

ロンドン初演のオペラにはシラーの「群盗」を選び、ロンドン公演の評価はまずまずだったようですが、著者の書いているように、ヴェルディの良いオペラの一つではありません。なぜドイツのシラーの1781年初演のこの戯曲を選んだのかの経緯については何も書かれていませんが、どうもアンドレア・マッフェイに感化されて、選んだのではないかと思います。調べるとシラー(1759~1805)はゲーテより10歳若く、両方ともドイツの「疾風怒濤」運動時代に作品を発表し始め、「群盗」はシラーのこの時期の作品。両作家共その後古典派に移っていきます。この戯曲がどうして、当時から100年くらいの間騒がれたのか、私にはわかりようがありません。内容的にドラマとしてよくないと思います。現代に通じる普遍性にも欠けています。さらにマッフェイの翻訳、セリフ台本にも問題があり、彼のインスピレーションは湧かなかったようです。

この初演を鑑賞なさったヴィクトリア女王は毎日日記をつけることで知られていますが、その晩オペラについて「セニョール・ヴェルディの新作オペラは、騒がしい音楽で、くだらない筋・・・」と書いておられます。

現在、ほとんど上演にならないので、私も舞台で見たことはありませんが、2つのDVDで観ました。歌手も良くなく、興醒めでした。凶悪な次男役はバリトンが歌いますが、ロシア人のディミートリ・ハヴォロストフスキー(2016年に脳腫瘍で死去)というバリトンはこういう悪役が好きなようで、よくコンサートなどでも歌っていたようですので、ここにYou-Tubeのリンクを入れます。

残念ながら、CD版ですが、何枚かの写真が入っていて、その姿はまるでドストエフスキーの小説の主人公のようです。シラーのこの戯曲はドストエフスキーにも影響を与えたとどこかに書いてありましたから、彼はそれを知っていて、意識したのかも知れません。

著者のもう一つのお薦めは第2幕でカルロがまだ生きていると知って喜ぶソプラノのアリア場面。コンサート形式ですが、リセット・オロペサというニューオーリンズ出身のアメリカ人のものを見つけたのでここに入れます。ヴェルディらしい美しいアリアです。

彼女はここ5年位メキメキ実力をつけているようです。澄んだ声をしていて、ジェニー・リンドのために書かれた難しいアリアを見事に歌っています。最近日本公演でヴィオレッタを歌ったので、ファンの方もいると思います。彼女は2019年にミラノのスカラ座がこのオペラを上演した時にこの役を歌って以来、彼女の当たり役の一つになったようです。

最終場面、カルロと父親のデュエット、さらに群盗たちのコーラスとソプラノも入って3重唱は、残念なことにユー・チューブで見つけることができませんでした。その代わりに前奏曲のチェロの独奏を入れます。曲の説明にこれは1851年にベルガモ出身のチェロ奏者のために作曲されたとあるので、初演にはなかったのかも知れません。

このオペラについてはこの位にして、今回は趣向を変えて、彼らのロンドン行きの行程の一部を辿ってみたいと思います。

第6章で私は書きましたが、ヴェルディの生涯を描いたテレビ用ドラマシリーズを観て、私は感激して、それと内容的に似ているこの本の翻訳をすることにしたのですが、実はこの本で一番気に入ったのは、この章にあるムチオの手紙にリストされたパリまでの旅行行程でした(私は大の旅行好き)。いつかこの行程を辿ってみたいと思っていましたが、行程2番目の湖上蒸気船をこの度体験することができました。10月にシチリア島を旅した後、スイスのチューリッヒからの直行便でサンフランシスコに戻ることになっていたのですが、チューリッヒはルツェルン(英語名はLucerneルサーン)湖に近いのです。ヴェルディとムチオはミラノから馬車でフィオラというルツェルン湖の南端フリューエレン近くまでいき、そこから蒸気船でルツェルンまで行きました。私はチューリッヒ空港から電車で1時間半のルツェルンに行き、1泊した翌日、紅葉と青空と空気にも秋の気配が感じられる土曜日、フリューエレンへの船の往復を体験したことをここで皆さんにご報告します。

ルツェルン湖は手の指を何本も広げたような形をしていて、客船は地域の生活船でもあり、観光船でもあるようで、途中10ヶ所くらい寄り道をするので、3時間(往復5.5時間)かかると時間表にありました。土曜日で紅葉の季節ということもあったせいか、船の中は食べて、飲んで往復する観光客でいっぱいでした。途中降りて、そこから登山電車やケーブルカーで近くの山頂まで行ける情報も時間表に入っていて、そういう人たちも多く混じっているようでした。穏やかな秋日和で水は静か、次々と岩山のピークが現れては去り、のどかなクルーズでした。(旅行書には「このクルーズは”lazy and very pretty”で、ヨーロッパのシニアたちに一番人気がある」とありました)。

フリューエレン到着1時間前位のところはスイスの英雄ウィリアム・テルの教会とミュージアムがあるということでしたが、私はパス。つまり、中世の昔から、交通の要地であることから、スイスで最も開けた地方だったようで、人々も物質もアイディアも多く往き来したということです。この湖はルツェルン市でロイス川に流れ出ていて、その水量が多いので、冬も凍らないとのこと。後で分かったことは、その川はフリューエレンから湖に流れ込み、ルツェルンから流れ出て、ライン河の一部となり、北海に注いでいるのです。中央ヨーロッパの分水嶺はイタリア寄りのスイス、つまりスイスの南部で、そこからこの川の水は北へ流れているのです。雪解けの水で水量は多く急流で、難所に“悪魔の橋”と呼ばれるものがかかったのは13世紀。その後、徐々に通行路が整備されていきます。ヴェルディたちが2時間でルツェルンに着いているのは、寄り道が少ないだけでなく、水の流れ方向だし、5月で水量も多く、流れも早かったということもあったでしょう。

フリューエレンからトンボ返りで引っ返したところで、副船長の人にこの客船ビジネスはいつ始まったのか訊いたところ、1837年という答えが返ってきました。ヴェルディたちはこのサービス開始から10年足らずの時に乗ったことになります。ルツェルンまでの所要時間は2時間とムチオは書いています。副船長さんにヴェルディが1846年5月にこれに乗ってロンドンに行ったのよと言ったところ、そんなことは初めて訊いたと言っていました。当然でしょう。1旅客者だっただけですから。

家に帰ってからスイスの旅行書を丁寧に読んだところ、ここはスイス政府が観光国家として勧める4大鉄道観光コースの一つで、私が乗った観光船とフリューエレンと国境近くのルガノ湖までの間はゴッタルド峠と呼ばれ、現在世界で一番長く、深い鉄道トンネルを走るパノラマ電車と“つい”になったコースでした。この峠は中世から、スイスの2千メートル級の山岳地帯を縦断する交通要所で、13世紀には馬車用の道路ができ、1830年には舗装道路となったそうです。

ヴェルディの時代にはトンネルもなかったので、ミラノからは30時間かかったとムチオは書いています。30時間というのは、食事、トイレ、宿泊などの時間を割いたものなのか、わかりませんが、多分夜は宿で休息し、日中12時間くらいは走り、これらを全て含めた時間が30時間ということでしょう。他の本によると、彼らはウィリアム・テルの家、教会またゲスナーを殺したところなどを見たそうです。ということはフリューエレンから、馬車で船の先回りをしてシシコンなどに行って、見学したのでしょう。ウィリアム・テルの話は、イタリアでもすでに有名だったとは思いますが、オペラ『ウィリアム・テル』はヴェルディが最も尊敬するロッシーニの最後のオペラ(1829年初演で、当時の慣習では、レパートリーに入れて再演することがなかったので、ヴェルディは観ていないとこの著者は第4章で書いています)ですが、今回わかったことはセリフ台本はシラーの戯曲を基にしています。「群盗」も同じくシラーの戯曲をもとにしていることなどから、彼は意識してここを見学したと私は思います。彼は知的好奇心の強い人ですから。

フリューエレンの船着場付近

途中の写真を何枚か入れます。こんな風景を見ながら、ロンドンでの初演のことを多少心配しながら、ヴェルディはこの2時間の船旅を楽しんだのかなーなどと思いを馳せました。

復路は日が傾き、気温が下がったこともあり、船内のレストランで遅いランチを食べることにしました。メニューの中から、パーチというこの湖で獲れた淡水魚の天ぷらを注文したところ、魚は新鮮で揚げ具合もよく、なかなか美味しい一皿でした。

この船会社のサインにルツェルン湖の全姿が入っていました。正式名は「4つの森の州の湖」で、1291年にスイス永久同盟にサインした3州とルツェルン(左上の指先)が取り囲んでいます。右下の端がフリューエレンです。

ルツェルンの町も中世的な建物の街並みがよく保存されて、可愛らしい町でした。これは古い市庁舎らしく、何やら政治的な集会のようでした。市民の議会直接参加を思わせる雰囲気でした。

このあたりの湖の幅は30メートルくらい。そこにかけられた屋根付き橋。中世の要塞の一部だそうで、途中にある建物は見張り塔。橋にかかった屋根の下の欄間のような部分には、宗教的な主題の絵が描かれています。

パウル・クレーという20世紀前半の画家はスイス人。アーティストとして活動はドイツ南部でしたが、ユダヤ人であることから第2次大戦末期には教職を追われ、作品の展示が難しくなり、スイスに移住。2年後に亡くなり、4000点もの作品を残したそう。その一部125点をルツェルンの画商ローゼンガルトが買取り、彼の印象派、ピカソ、シャガールなどの近代絵画の作品と共に今、ローゼンガルト・コレクション美術館に展示されています。

私は知りませんでしたが、ルツェルンは100年以上前からヨーロッパの大観光地だったようです。街は現代の観光客に便利なように、駅を中心に近代化されています。水際にはかなりの規模のコンサート・ホールがあり、日曜日の夕暮れ時に、ここのオーケストラとコーラスによるメンデルスゾーンのオラトリオ「エリヤ」が上演されました。アメリカではあまり聞かれない曲目です。会場はほぼ満席。

このドイツ語圏のスイスの人々は、気質がイタリア人と明らかに違うことがわかります。物価は高いようで、皆地味な格好をして、黙々と自分のビジネスだけを考えながら、お互いの自由と独立を維持して日常を暮らしているように見受けました。無理して帰宅を2日延ばして、ここまで足を運んだ甲斐があったというのが私の実感です。

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