記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

我々が本当に恐れるべきもの|『悪は存在しない』考察

先日、濱口竜介監督の映画『悪は存在しない』を観た。
前作『ドライブ・マイ・カー』の静かな世界観と、それを彩る石橋英子さんの音楽が好みだったので、再び同じタッグの作品を楽しみにしていた。

しかし本作を観た時、いい意味で裏切られた気がした。一つの映画の中に静けさと混沌が同居しており、かなり考えせせられたのだ。
今回はストーリーの意味自分なりに紐解いて、順に考察していきたい。


※ここからは作品内容のネタバレを含むため、ご注意ください。




都会と田舎におけるスピード感の違い

冒頭は見上げた木々を映し出す、静かな映像が長く続く。
その後、主人公(巧)の薪割りの風景や地元住民同士のやり取りからも、穏やかな田舎の生活が伝わってくる。
巧には花という娘がいるが、便利屋の仕事に打ち込むうちに学童のお迎えの時間を忘れてしまうシーンが度々描かれている。
森を一人で歩く花の姿からは、彼女にとって父が迎えに来ないことは日常茶飯事であり、よく一人で帰っていることが伺える。
ここには、田舎特有のゆったりとした時間軸だけでなく、思考のスピードが遅い巧本人の危うさが描かれていると私は思う。

一方、グランピング施設を作るために東京の芸能事務所からやってきた高橋と黛。彼らは上からの指示で、コロナ助成金をもらうためになんとしてでも計画を早く進めるように言われている。しかし、地元住民たちは些細な計画の粗も見逃さない。なぜなら、自分たちの生活が穢されてしまう可能性があるからだ。
高橋と黛は一度計画を持ち帰った後、水挽町に詳しい巧の元へ会いに行く。その道中の車での軽快な会話がとても印象的だ。黛は芸能事務所の裏側を見ても「予想した通り」と思うほど達観しているのに対し、高橋は「こんな会社辞めちゃえば?」と言う。
また、高橋は水挽町の景色や住民に触れ、自分が施設の管理人になるのもアリかと考え始める。そんな話をするうちに、たまたま通知が来たマッチングアプリにおいても、「今マッチした人と暮らそうかな〜」と言う。
高橋は単純で思考のスピードが速く、巧とは真逆の危うさを持っている

このように、対極的なスピード感を持つ二人はまるで、田舎と都会のメタファーである。その乖離があの衝撃的なラストシーンに繋がっていくのだ。

登場人物たちにとっての悪

「悪は存在しない」というが、巧からすると自分たちがずっと大切にしてきた自然を壊そうとする高橋や黛は悪であり、高橋からすると無謀な計画を指示する社長や、最後に自分を殺そうとした巧は悪である。

一方、注目すべきは花と黛の存在である。
花は特に重要なことを語らずして突如居なくなったものと思われるが、一人の少女として巧に父の愛情を求めていた。にも関わらず、巧は迎えにも来ず遊びの相手もしてくれない。母親がいない彼女は孤独で、だからこそ木々や動物たちに近づいて行ったのだろう。彼女からすると自然や動物は善で、最終的に父は悪だ。
また、黛は女性的役割を押し付ける社長にも、汚い芸能業界自体にも反発していないように見える。むしろ「綺麗事がなくていい」とまで言っていた。しかしそれは、そもそも人間自体がそう良いものではないという性悪説前提に成り立つ思考であるとも言えるだろう。
説明会で罵声を浴びせられても、地元住民の声に耳を傾ける彼女の姿勢からは、まさに性悪説故に善的な行動をとっているのではないかと考えられる。

つまり、視点が変わると誰もに悪の対象がある。だからこそ全方位から見て悪である「完全な悪」はないという意味で、悪は存在しないと言えるだろう。

我々が本当に恐れるべきもの

失踪した花と鹿の親子を見つけた時、何故巧は高橋の首を絞めたのか。
それは巧と花が自然に近づき過ぎてしまったからであると考える。
自分の娘が鹿の目の前に居るのをみたら、普通迷わず助けに行くだろう。
しかし、池の真ん中に佇む花はどこか神聖な空気を纏っており、やがて森の中に消えていく。目撃者はいるが、行われていることはもはや神隠しに近い。その儀式を邪魔されないために、巧は高橋の首を絞めたのではないだろうか。

巧は田舎のメタファーであると前述したが、彼は最後のラストシーンで花と共に自然そのものに回帰したと考える。
本作のテーマに思える「グランピング施設を建てたい者と、それに反対する現地住民の対立」というのはあくまで表面的なことであって、おそらくそこに本質はない。
我々が本当に恐るべきものは、経済が成り立たず田舎から人が減っていくことでも、都会的なものが流れ込みその土地ならではの良さが失われていくことでもない。

人の手によってどうしようもできないほどの力を孕んでいる自然こそが、最も神聖で恐ろしいものであるということをこの作品は伝えたかったのではないだろうか。


映画『悪は存在しない』あらすじ

長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

公式HPより

この記事が参加している募集

おすすめ名作映画

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?