ありのままの自分を認め、受け入れていく場を開きます
ややドキドキしている
心拍が少し早まっているのが分かる
でもその体感覚に意識を向けているとそれが徐々に落ち着いていくのが分かる
noteを書くのは2年ぶり
UIが変わっていて勝手が違う事に気付く
この2年間、というよりコーチングを学び出してから約4年程、新しい学びを得ては実践してまた新しい学びを得ていく事を繰り返してきた
沢山の気づきと共に変容というには誇張している感じがあるけれど、外的内的な変化は沢山起こっている
その一つ一つが今の自分を形作っている事は間違いない
ただ、その変化を作り出していた自分の根っこにあったのは「恐れ」だったと今なら分かる
「ありのままではいられない、いてはいけない」
丸裸で人と対峙すれば戦いに負けてしまうかもしれない
結果として、誰も自分を見向きはしてくれなくなる
そんな恐れが根っこにある
その恐れを払拭するために沢山の武器を手に入れ、武装しながら世渡りしてきた感覚がある
コーチングも武器の一つである
コーチングから派生して学びに行ったものも全て武器に変わっていった
こうして身に付けた武器は他人からの評価を上げ刹那的に満たしてくれる
でもいつしか「足りない」という感覚に引き戻される
いつもどこかに不安がある
武装した自分が顔を出す瞬間を狙っている
「ありのままで丸裸でいたら殺られるぞ?」
肩に、顔に、全身に力が自然と入ってくるのが分かる
沢山の外的な恐怖から自分を守る為に動いてくれていたものが間違いなくある
ただ、そろそろそれに人生の主導権を握られて過ごしていく事から離れていこうと思う
「どんな事が起こってもいい、あってもいい」
心からそう感じながら生きる体験をこれから創りたい
この感覚を共有できる仲間と出会いたい
そんな一歩目として今回場を開きたいと思います
自己紹介
はじめましての方もいると思います!こんちは!
荒井春輝と申しまして、今は会社員として中途入社者向けの研修講師、社内相談窓口をメインに、コーチングを副業で提供している者です。
ZaPASSというコーチングスクールで20年に学びを終え、その後周辺領域のWSや講座などに沢山出ながら心の領域の学びをそこそこ重ねてきました。
そんな中、22年末からメンタルモデルという人が無自覚に持っている信念を扱う講座に通い始め、現在どっぷりハマっています。
タイトル及びプロローグで記載の「ありのままではいられない」という言葉は、現時点で私のメンタルモデルに該当しそうな言葉です。
公私問わず、どんな場に居ても安心が生まれづらい。その感じが他者に伝わって自分以外もありのままでいられづらくなる。そんな体験を繰り返してきた気がします。
他人と接する中で「この人繕っているな?」とか「なんか壁を感じるな?」と思う事ありません??それが僕でした(笑)営業として過去働いている時は同僚から「イキってるな」「斜に構えている」と言われたこともありますw
今所属している教育組織で研修講師を務める中でも、「講師として威厳を」とか「どんな質問にも的確に答えねば」みたいな自分の中で作り上げたエリート講師像が顔を出してくることもあります。
これ結構厄介で、武装して他者と接するので自ずとその人も武装してしまいます。するとどうでしょう、常にとは言わないまでも武器と防具でガチガチに固まった人同士が対峙すれば、お互いの腹の内を明かす、という事が中々起こりづらくなります。コーチや研修講師という職業柄、これは中々致命的なポイントだったりします。
なんですが、先述したメンタルモデルの講座やコミュニティを通して、徐々に「あ〜実は自分の存在が脅かされのが怖かったんだね」と自身を労われるようになったり、それを人に話してみたら意外と受け入れてもらえたり、「ありのままでいるってこういう事かも!」「ありのままでいる事から何かアクションすると同じ事をやっていても感じ方が違う体験になるんだ!」そんな感覚を覚えるようになりました。
この体験を通じて、もっと自分自身がありのままでいていいという感覚を養いたい。また、似たような感覚を持っている人の何か助けになったら嬉しいな、という想いから今回場を開こうと思い立った次第です。
場の趣旨と概要
趣旨はありのままを感じる、そこから体験する事です。
この世に誕生してから私たちは沢山の人と関わる中で意識的にも無意識的にも他者の要求に応えます。
例えば今私が書いているこのnoteも別に誰に何を言われた訳でもないのに、「いかに分かりやすく、論理的で納得度の高い文章になっているか」を追及しようとする節があります。「"ありのまま"という言葉の定義は?」「この構成で読み手は理解が出来るのか?」「イラストや図解があった方が分かりやすいのでは?」沢山の真っ当そうな問いが湧いてくるわけです。
これらは世間一般で言われるような「正しさ」に近づく為の必要な問いであり、noteを書く上で大切な補助線に見えますよね。そうした「正しさ」っていつから芽生え始めたんでしょう?
生まれたての赤ちゃんが「論理的である事って最高おぎゃあああ」とはならないですよね?(笑)
当然の様に親や友人、学校の先生など関係者との関わりの中で自然と何をするにしてもの価値基準が生まれます。これがいわゆる価値観だと置きます。
この価値観が何のために形成・存在していくのか。
それはこの世の中で生き残っていくため。
幼子は親の要求やしつけに従わないとご飯が食べれなかったり、衣食住を自ら満たしていく事は出来ない。歳を重ねて学校、友達コミュニティ、部活、会社、様々な場で物理的に死ぬことは無いが精神的にその場にいても良いと思える為には、何かしら他者の要求に応える(場の中では適合と呼びます)必要があります。
そう考えると価値観ってなんだか自分を肉体的精神的な死から守る為の大切なピースに思えます。
価値観は「こうであれば自分はそこにいられる」という安心を生む為の指針になる。ただしそれは「こうなってはいけない」という恐れを同時に生む事にもなり得ます。
価値観は「本当はこう思ってるけどこれを言ったら皆の雰囲気が悪くなるだろうな」とか「緊張している自分を皆の前では見せてはいけない」みたいな必要以上の遠慮や力みを生む事も一方で多くあるように思います。
この恐れを払拭するために何かしら対策を立てる、もしくはその為に力やスキルを獲得していく、あるいはその場には参加しない、という事を繰り返しているように思います。
つまりここまでの話で何が言いたいかというと、
これら世渡りする為の価値観やそこに紐づいた行動が、自分がありのままでいる事を許容できなくしている側面があるのではないか。
別にありのままでいる事を正義としたい訳ではないものの、ありのままに自然体で過ごす生き方も出来るんじゃないだろうか?そんな選択肢を一緒に模索したいなと考えています。
なので今回は「ありのままでいるとは何か」を探求し、上手く世渡りする以外の生き方を一緒に模索しませんか?というお誘いなのです。
全4回を終えた時、「ああ、自分の中には実はこんな言葉にならない声があったんだ」「自分の内側の声に耳を傾けられるようになってきた」そんな自身のあるがままを認知し、受け入れていく事が出来たらと思います。
以下概要です!
今回の場をお勧めしたい方
各回でやる事をかっちり決めて実施する、というよりは参加者皆さんのニーズを聴きながら一緒に場を作っていきたいなと思っています。
とはいえ、こんなニーズが現時点であるよ!という方には恐らくフィットするかと思いますので参考までにご覧ください。
逆に、こういったステータスにある方は今回フィットしないと考えています。
最後に
ここまで拙い文章をお読み頂きありがとうございます。
場に参加しようともしなくとも、どんな感想を持とうとも、こうして私が感じている事をあなたが受け取ってくれている事が何よりも嬉しいなと思います。
今回の場を思い付き「これだ!!!」と閃いてから1,2日で書き終えられると思っていましたが、結果2週間弱かかりました。
感じている事をふんだんに言葉にして届けたい。それが共振した人と一緒に場を過ごしてみたい。そんな好奇心と共に、SNS最近全く動かしてないし人が集まらなかったらどうしよう、こんな文章で本当に興味をそそられるのだろうか、そういった「やるからには」とエゴによって生まれた不安も同時に生まれる事もありました。
改めて今回の場の趣旨はありのままを感じる、そこから体験することです。
こうして好奇心と不安が入り混じるのを感じる事、これもまた一つのありのままであるように感じます。
この後何が起こるのか。もし場が生み出されたとしたら、そこで皆さんは何を感じながらそこにいて、私はどう感じるのか。ここから起こる体験に今はとてもワクワクしています。
ではでは、お会いできる事楽しみにしています!
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