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匿名の詩たち

 家に戻ってもパソコンを開く気にならず、しばらくソファで放心しているうちに眠ってしまったようだった。水を含んだ綿が頭の中に詰まっているように、五感が重たく鈍い。
 身体を起こしながら、いつもの癖で条件反射的にSNSを開く。数時間前の、ルイのオフィシャルアカウントからの投稿が目に止まった。
 「今日は取材Dayでした。しゃべるのって疲れるう〜。是非楽しみにしててね」
 という言葉と共に、あの会議室でマネージャーが撮影したと思われる、ルイの写真が投稿されている。少し顔にかかった前髪の隙間から、わざと疲れたような笑顔を見せている青年。背はそれほど高くないものの、バランスのとれた細身の身体。七百件ほどの『いいね』と、「楽しみにしてます!」「髪の色かわいい〜〜」「疲れた顔もイケメン」といったコメントが付いていた。
 私は立ち上がって携帯をソファに投げ、洗面所に向かい顔を洗った。少しずつ、今日の出来事が蘇ってくる。録音を聴き直さなくても、取材でルイが語った言葉を私はあらかた思い出す事ができた。それらが頭の中で一つ一つ反芻され、思考が冴えていく。
 何かを語るルイの表情と、隣で岩のように黙っている横山の表情。キーボードを叩く女性マネージャーの冷たそうな指。秒針の音と会議室の匂い。そう言えば、今は何時だろう。蛇口を捻って水を止め、一昨日の結婚式の引き出物でもらったタオルで顔を拭う。「結婚式が終わったら郊外に家を建てるらしい」と、二次会で数人の客が噂をしていたのを思い出す。新婦は恐らく専業主婦になるのだろう。頭が冴えて、余計な事柄が何の秩序も無く浮かんでは消えていく。

 テレビを点けると、四時間に及ぶ音楽特番が始まったところだった。聴き覚えのあるイントロが流れ、”人気急上昇中の実力派ロックバンド”と紹介された四人組のバンドが演奏を始める。『Cigarett ends』だった。画面の中で和田が顔をくしゃくしゃに歪めて歌っている。
 キャロッツが出した最後のアルバムに入っている『匿名の詩』という曲。その曲のサビの歌詞が、ほとんどそっくりそのまま、メロディだけを変えて歌われていた。ウェディングソング向けに、鐘の音やパイプオルガン風の音飾が多用されたアレンジ。照明が当てられたメンバーの姿に、歌詞のテロップが重なる。私はテレビを消し、窓を開けて煙草に火を付けた。

 夜の住宅街に向かって吐き出した煙と共に、音楽というものが、私の身体から、遠く遠く離れていくように感じられた。私の耳から、目から、鼻から、記憶から、遠く遠く離れ、つるつるのプラスチックで出来たオモチャのような無味無臭な物体へと変容していく。丁寧に取り扱いの注意書きがされ、鮮やかな原色で塗られたそれは、どこを触っても一つのささくれもなく、決して怪我をしないように出来ている。しかしよく見ると継ぎ目がチープに接着されていて、振ってみるとカラカラと軽い音がする、そういうオモチャ。
 音楽という言葉が一体何を表しているのか、私にはもう分からなくなってしまっていた。テレビから流れてきた和田の声、盗まれた歌詞、今日ルイが語った言葉、ゴーストライターが書いた曲、デスクに積み上げられたサンプルCD、横山が作り上げようとしたもの、雛壇で手拍子をしているアイドル、蒼介が歌った歌。それらをまとめて音楽と呼ぶ事は、私にはもう出来そうもなかった。

 今私が感じられるものは、煙草の匂いと、四月の冷たい夜風だけだ。
 こんな時に聴きたい歌があった。気が付くと口ずさんでいる歌があった。落としたら割れてしまうし、迂闊に触れれば怪我をしてしまうような。けれど、こんな時にそっと隣にいてくれるような歌が。私はきっとそれを音楽と呼んできたのだろうし、これからも、そうしたかった。
地面に置いた灰皿で煙草を揉み消し、しばらくの間、ただ住宅街から聞こえる微かな生活の気配に耳を澄ましていた。


読んで下さってありがとうございます。思考のかけらが少しでも何かの役に立ったなら幸いです。