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Living Behavior

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 あの日、事務所ビルのエントランスから出てきた蒼介の表情は、横山との面会が思い描いていたそれとは掛け離れていた事を窺い知るには、充分すぎるものだった。
 無機質なビルを背に、小さく立ち尽くす蒼介の姿。雨が吹き付けるどこまでもくすんだ灰色の風景の中で、彼のTシャツだけがただ一つ不自然なほどに真っ白く見えていた。


 キャロッツが大手事務所に声を掛けられたという噂は瞬く間に広まり、『Parade』での格好のネタになっていた。噂を聞きつけたスタッフや先輩バンド達の中には、それを良く思わない者も多かった。案の定、彼らはキャロッツが契約を取り付けられなかった事を知ると、メンバーに対して慰めの言葉を口にしながらも、内心その不運を喜んでいる様子を声色から滲み出させていた。
 一方、朗報を心から祈ってくれていたチヒロとビリーは、初めのうちはキャロッツのメンバー以上に落胆していたものの、最終的には、
「そんなのこっちから願い下げっすよ!」
 と、怒り出す始末だった。
 当の蒼介自身はそんな外野の声は気にも留めない様子で、それまでと変わらず『Parade』に出勤し、そこに集まった人々と酒を飲み、今まで通りライブをこなした。ラブやチヒロ達は、相変わらず飄々としている蒼介を見て安堵しているようだったし、ライブを観に来る人々も、何の疑いも無く、ステージ上のキャロッツを以前と変わらぬものとして当たり前のように見つめていた。
 
 しかしあの日以来、蒼介は歌詞が書けなくなった。
 今まで呼吸するかのように歌を書いてきた彼にとって、それはまさに呼吸困難のようなものだった。
 その飄々とした態度とは裏腹に、時間が経つに連れ蒼介の顔から以前の自信に満ちた表情が少しずつ失われていく。私には、蒼介を蒼介たらしめていた楽観的な雰囲気が消えていくように思えて仕方がなかったが、その繊細な変化に気付いていたのは、私だけだったのかもしれない。何より、その事に一番気が付いていないのは、蒼介自身だった。
 周りの人間に対して蒼介が陽気に振る舞うほど、彼自身はどこか深く自らの中へと潜っていき、以前にも増して分厚くなった透明の膜の内側で、表情すら分からない程にぼんやりと霞んでいく。私に対しても決して弱音を吐こうとしない蒼介に、私は何と声を掛けたらいいのか分からなくなってしまっていた。
 
 「蒼介さん、先輩には言わないと思うんだけど」
そう言って、あの日何が話し合われていたのかを私にこっそり教えてくれたのはラブだった。
 ラブが言う通り、蒼介は私に全てを伝える事はしていなかったし、私も蒼介が話そうとしない事を無理やり聞き出すつもりもなかった。
「ありがとう。ラブがいてくれて良かったよ」
「いや、俺はなんも言えなかったんだけどさ」
 タトゥーの入った細い腕で、ラブが頭を掻くような仕草をする。私は、独り言とも、ラブへの問いかけともつかない言葉を吐いた。
「蒼介、今どう思ってるんだろう」
「え?それは、先輩の方がよく分かるんじゃないの?」
「私は…」
 そう言ったところで不意に涙が出そうになり、言葉に詰まってしまった。ラブが驚いたように私を見ている。
「私は、他人だから」
 その言葉に、ラブが眉間に皺を寄せる。
「他人じゃないでしょ。なんでそんなこと言うのよ」
「全然分かんないんだよね、蒼介の思ってること」
「あんなに分かりやすい人なのに?」
「え?」
「考えすぎだよ。蒼介さん、誰よりも人間ぽくて分かりやすいじゃん。あの日だって、先輩にもらったTシャツ嬉しそうにみんなに自慢してて」
 私はそれを聞いて思わず笑ってしまった。
「あのTシャツ着て、武道館でライブするって言ってた。招待するって」
「だから夢は武道館なんて言ったのか」
「え?」
「蒼介さん、武道館なんて考えたこともなさそうじゃん。興味もなさそうだし。でも、いつか先輩に大きいステージでライブ見せたいって素直に思って、じゃあ武道館かなって、考えたんだよ、多分。そもそも、どんくらいデカいかも分からず言ってると思うよ」
 ラブが笑いながら煙草の煙を吐く。
「はは、アホだなあ」
「うん、アホだよ。知らなかったの?だから、先輩だって素直でいいんだよ、そのまんまで。そのまんま思ったこと伝えてあげなよ」
 その言葉を聞きながら、私は今すぐ蒼介に会いに行かなければいけないような気がしていた。ラブにお礼を言い、その足で、私は何かに突き動かされるように蒼介の家へと急いだ。
 
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 まだ早い時間だと思っていたが、電車を降りるとあたりはもう暗くなっていた。十九時を過ぎても空が明るいこの季節は、どうしても時間の感覚を失ってしまう。六月の湿度の中、二十分の道のりを歩いて辿り着いた蒼介の部屋の窓には、灯りがついていなかった。しかし、窓は開け放たれ、網戸越しにカーテンが揺れているのが見える。
 私は何故だか胸騒ぎを覚え、ペンキのハゲた鉄骨の階段を足早に昇った。




読んで下さってありがとうございます。思考のかけらが少しでも何かの役に立ったなら幸いです。