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永い夢を見ていた

 鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと玄関の扉を開ける。中は真っ暗だ。蒼介は眠っているのだろうか。靴を脱いで部屋に上がろうとしたその時、「ザー」という砂嵐にも似た音が断続的に鳴っている事に気が付いた。
 全身の血が一気に引いていくのを感じた。私は土足のまま部屋に上がり込み、左手にある浴室の扉を勢い良く開けていた。
 「蒼介!!」
 そう叫んだ声が、「ザー」というシャワーの音と混ざり合って狭い浴室に響く。浴室の中も真っ暗だった。充満した高温の蒸気が顔に張り付き、視界を曇らせる。シャワーの細かい水しぶきを身体に浴びながら、暗闇で必死に目を凝らすと、バスタブの中で黒い塊がのっそりと動いた。
 心臓が、飛び出しそうな程に早く激しく脈打っていた。黒い塊から細い棒のような物が伸び、「キュ、」という音と共にシャワーがその威力を弱め、やがて止まった。
 一瞬の沈黙。
 「あれ、どうしたの、来てたの?」
 暗闇に、蒼介の声が響いた。
「何してるの!?」
 声が震えている。
「シャワー、浴びてたんだよ」
 蒼介は平然と答える。
「なんで電気つけないのよ?」
「たまに、こうしたくなるんだよね」
 そう言いながら笑う彼の姿は、明らかに異様だった。
「て言うか、シャワー浴びてたって、その格好」
 暗闇のバスタブの中で、蒼介は服を着ていた。薄い上半身に水浸しの布がぴったりと張り付いている。それは私がプレゼントしたTシャツだった。
蒼介は自分の胸元に視線を落とし、
「ああ、洗濯、しなくても済むかなと思って」
 そう、またしても笑いながら言った。その口調は不自然なほどにゆっくりだ。蒼介はどうしてしまったのだろう。私は幼い子供のように泣き出したい気持ちでいっぱいだった。喉が詰まって言葉が上手く出てこない。
「由梨ちゃん、どうしたの?」
 水を滴らせながら、蒼介が俯いた私の顔を覗き込む。
「どうしたのって…こっちのセリフだよ」
 思わず語気が強くなり、蒼介が驚いた顔をした。私は服のまま浴室に上がり込み、彼の顔に張り付いた髪の毛を両手で掻き分け、大きく息を吸ってからしっかりとその目を見つめて言った。
「蒼介、私は蒼介の歌が好きだよ。初めて聴いた時からずっとそうだよ。他の人の歌なんてクソみたいだよ。なんの興味も湧かない。つまんない。上澄みだけかき集めたみたいな歌ばっかり歌って。何が言いたいのか全然わかんない。蒼介だって自分の歌が好きでしょ?歌詞書くのが好きだったじゃん。蒼介にしか、蒼介の歌は書けないじゃん。武道館なんてどうでもいいよ、私。て言うか、蒼介がちゃんと自分の歌を書いてたら、武道館だろうがなんだろうが、行けるよ。馬鹿にすんなよ。舐めんなよ蒼介を。ふざけんなよ」
 言いながら涙が溢れてきて、途中から私は誰に何を訴えているのか、分からなくなってしまった。泣きながら崩れるようにしてずぶ濡れの蒼介に縋り付く。蒼介はいつの間にか正気を取り戻し、私の言葉を真剣に聞いているようだった。
 「ごめん。泣かないで。大丈夫だから」
 私は悔しかった。蒼介の歌を馬鹿にされた事が、蒼介以上に、悔しかった。
 蒼介はもう以前の蒼介ではない。十代が必ず終わるように、勝手に歌が湧き上がってくるような時代も必ず終わる。それが一体いつなのか、何がきっかけなのかは分からない。コントロールしようとしたって無理な事だ。
 けれど、それを突然現れたわけの分からない業界人の言葉によって決められてしまった事が、悔しくて仕方がなかった。そんな他人の無責任な言葉に影響されてしまった蒼介の繊細さにもまた、どこにもぶつけようのない苛立ちを感じていた。でももうどうしようもないのだ。私が何を言おうと、ファンが今までと変わらずにライブに来ようと、蒼介の中で確かに一つの時代が終わったのだ。
 これから蒼介が新たに歌を書き続けるとしても、今まで通りでいる事はできない。もう一度過去の自分を取り戻そうとすればするほど、その呪縛から逃れる事ができなくなっていく。子供の頃何も考えずに描いていた自由な絵が、大人になって知識や見栄が備わるに連れてどうやっても描けなくなってしまうように。
 その感覚を、他人が無闇に壊していいはずがない。もしもその上で関わろうとするならば、最大の敬意と責任を持って、歌というものを扱わなければいけないのだ。それを、あの男は、一体どういうつもりでいるのだろう。今までどういうつもりで沢山のミュージシャンに接してきたのだろう。考えれば考えるほど、怒りが涙になって溢れてくるのだった。
 
 蒼介は私が落ち着くのをしばらく待ってから、Tシャツを脱ぎ、それを優しく絞った。私は涙と水しぶきでぐしゃぐしゃになった顔をタオルで拭き、やっと靴を脱いで部屋に上がった。
 タオルを首に掛けた蒼介が、コーヒーを淹れてくれている。彼を励ましに来たつもりが、逆に私がなだめられるような形になってしまった。
 本来綺麗好きな蒼介の部屋は、以前より少し荒れているように見えた。吸い殻でいっぱいになった灰皿の横に二つのマグカップを置きながら、蒼介が床に腰を下ろす。
 「ごめんね、なんか心配かけたみたいで」
「ううん」
「もしかして俺、変な電話とかした?」
「え?」
「あ、いや、してないか」
 そう言って蒼介はコーヒーを啜り、私もそれに倣った。
「ラブから色々聞いちゃって」
「ああ。それで急いで来てくれたんだ」
 蒼介とこうしてゆっくり話すのが、酷く久しぶりに思えた。オレンジ色のライトで陰影のついた横顔は、幾分か痩せ、少しばかり老けたように見える。

 不規則な夜勤によって以前から続いていた不眠がこの数週間で悪化し、処方された睡眠薬を常用している、というような事を蒼介は私に話した。
 「由梨ちゃん来る前も、寝てたはずだったんだけどさ」
 と、申し訳なさそうに笑うと、
「あ、Tシャツ干さなきゃ」
 そう言って鼻歌を歌いながら浴室へ消えていく。
 私はできる限り、蒼介の側にいようと思った。彼が彼の歌を取り戻すために、私ができる事は全てしてあげなければいけないと思った。
 浴室からは聴いた事のない鼻歌が聴こえ、窓からは小雨に打たれた草木の匂いが微かに入り込んでいた。

 その夜、蒼介と私は一緒に眠った。
 真夜中にふと目を覚ますと、蒼介がノートに向かって熱心に何かを書きつけていて、私は寝惚けた意識の中でその姿を嬉しく思いながらもう一度眠った。しかし、翌朝目にしたそのノートには、ただ支離滅裂な日本語が並んでいるのだった。


 

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