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人間関係が築けない話

人付き合いが苦手だ。

昔から、人間関係を円滑に進められたためしがないように思う。

初めは良くても、段々と居心地の悪さを感じてどちらからともなく離れていったり。
うまくやっていたつもりが、思い返してみたら苦い記憶になっていたり。

よくこの調子で、小学校、中学校、高校という強制共同体を生きのびてこれたなあ、と思う。
その頃は(今もだけれど)、他人との距離の取り方が全くわからず、心を開きかけたところで突然シャッターを下ろすようなことをしてしまったり、
仲良くなりたいと思った相手にフランクを通り越して横柄な態度で接してみたり、
反対に気を遣いすぎて腫れ物に触るみたいな関わり方しかできなかったり、散々だった。

学生時代なんて、普通は肥大した自意識に絡め取られて、人間性としては別の何かに取り憑かれているようなものなので、今になって掘り返して本気で後悔したり自己嫌悪する必要はないと思っている。
(人をいじめる以外ならね)


それでも、その頃から変わらずにまっすぐな人間関係を築き、未だにつながりあっているような人たちを見ると、素直に羨望の眼差しを向けてしまう。

そんな調子でずっと生きてきた私は、友達が少ないということを時々心細くも思うが、実際のところは大して気にしていない。

私の大好きな短歌に、こういうものがある。

一番の友が夫であることの物陰のない道を帰りぬ
『たんぽるぽる』雪舟えま


なんというか、私の生きてきた道を言い当てられているような気がする。

この感覚を持っている人は実は多いのではないかと思っていて、
「友達いないんだよね」と言う人は大体、たった一人分かり合える恋人を持っていることが多い。
そして、その相手を人間関係のほとんど全てとして、場合によっては自分自身の一部というほどの認識をしていたりする。

一番の友が夫(恋人/異性でも同性でも)である、と言い切れるのは、生きていく上でこの上なく幸せなことだと思う反面、それを「物陰のない道」と表現したくなるある種の”怖さ”みたいなものも十分に理解できる。

「この人がいなくなったら」、「この人との友情=愛情が消滅したら」、自分は道の真ん中に独り。
そんな時、咄嗟に隠れることができる”物陰”になってくれるのが、本来は、友達というものだということ。
そう考えると、確かに私は物陰のない道を歩いているのだろうと思う。

その代わり、歌や言葉で表現をすることは、間違いなく、私にとっての巨大な物陰なのだ。

読んで下さってありがとうございます。思考のかけらが少しでも何かの役に立ったなら幸いです。