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歌にもならない夜を

 池袋の路上に、小さなうさぎがいた。

 軽く手を上げて、ラブが駅の人混みの中へ消えていく。
 うさぎはコンクリートの上を小さく飛び跳ねながら、駅ビルの脇をすり抜け、角を曲がって見えなくなる。私は慌ててそれを追いかける。高架をくぐり、寂れたラブホテルの前を通過し、段々と駅前の喧騒から離れていく。
 十字路に差しかかると、うさぎはほんの一瞬動きを止め、次の瞬間、赤信号の中へ躊躇なく飛び出して行った。待って!私は声をあげる。行き交う車の向こう側に、白い小さな塊が見え隠れする。信号が変わるのを待って私は走り出す。息が上がる。見覚えのある大きな公園。その中を見渡してもうさぎの姿は無い。私は走り疲れて、ベンチに座り込む。遠くで路上ライブをしている男の声が微かに聴こえてくる。このままでは、うさぎはまた道路に飛び出して轢かれてしまうかもしれない。
 「うさぎの生命力、知らないの?」
 不意に声を掛けられて顔を上げると、路上ライブをしていた男がいつの間にかすぐ横に立っている。
「あんたが心配しなくても、生き延びて、子供作りまくってるよ」
 男は笑っている。その言葉を遮るようにして、私は立ち上がって足早に公園を出る。近くにあったコンビニに入り、うさぎが食べてくれそうな生野菜のサラダを買う。店内のスピーカーから、気怠げなR&Bが流れている。ルイの歌だ。私は、うさぎのために買ったはずの生野菜をビニール袋から出し、齧りながら歩く。
 生き延びるってどういう事?無意味に生き延びるくらいなら、あの時交差点で轢かれて死ねば良かったんだ。
 「燃え尽きられなかった人間ほど悲しいものってないっすよ」ビリーが言う。「そのくせ、燃えてるフリしてんじゃねえよ」
 生き延びる、という言葉の意味が解らない。
 ラブは今、あの子のために生きているのだろうか。それが、生き延びるという事なのだろうか。けたたましいクラクションと共に、目の前すれすれを猛スピードで車が通り過ぎた。ぼんやりしたまま侵入してしまった赤信号の横断歩道を、慌てて渡り切る。

 うさぎがいた。
 石段の上にちょこんと座り、まあるい赤い目で、こちらを真っ直ぐに見つめている。私は買ってきた生野菜を差し出そうと袋の中を探るが、中身が空っぽになっている事に気付く。
 「あ、ごめん。何にもあげられないや」そう小さく言うと、うさぎはくるっと身体を回転させ、あっという間に遠く走り去ってしまった。
 「心配なんかしてないんだけど」
 呟くと同時に、涙が溢れてきた。私は石段に腰を下ろし、七年前から更新が止まったままのキャロッツのホームページを検索し、ブログを開いた。
 『大切なお知らせ』という最後の投稿。

ザ・キャロッツは解散します。今まで、ありがとうございました。

僕は、ソングライターに”なった”つもりはなく、それは、男、女、人見知り、のように初めからそこにあった。
みんな、歌を書かずにどうやって健康に健全に生きているのか教えて欲しい。
例えば、誰かに疎まれて途方もなくひとりになった夜に。
もしも、誰も見ていないブログに乱投して余計に心寒い思いをしている人がいたら、歌を書いてみるといいと思う。
て言うか書く場所を変えればそれはもう歌だ。

この先、もうこうやって会うことはないかもしれないし、どこかで思いがけず出会うかもしれない。

あなたに言いたいことは二つ。
武道館に連れて行けなくてごめん。
そして、心配しなくても、僕は生きるために生きていきます。

 
 生きるために生きていきます。その蒼介の言葉の意味を、私はその時初めて理解し、それと同時に、大きく波打っていた心の中が一瞬にして凪いでいくのを感じた。ビリーは生きるために死んだ。私は今、死なないために生きている。
 「心配なんかしてないんだけど」
 私はもう一度呟いた。そしてブログを閉じ、昼間に書き上げたルイの記事に再び目を通した。
 横山がこれを読んだら、必ずまた私に取材を頼むだろう。蒼介に記事を読んで欲しい。初めてそう思った。七年間、死なないために生きてきた人間の生き様を、見て欲しいと思った。
 私は立ち上がり、終電と始発の間の池袋の街を歩き出す。さっきの男の歌声が、遠く、微かに聴こえてくる。
 しなびたキャベツと人参をぶら下げて覗き込んだうさぎ小屋には、うさぎはもう一匹もいない。砂ぼこりと熱風がまとわりついて口の中がパサパサになって、くの字に曲がった蛇口を上に向けなまぬるい水道水をジャボジャボ飲み続ける。視界の隅でせっせと巣へと列をつくる蟻。
 「こんにちは、どうしてそんなところにいるの?」
 遥か頭上から、大きなうさぎが私に話し掛けている。砂埃で薄汚れた私は、真っ赤な目でこう答える。
「死なないため」
「ごめんね、助けてあげられなくて。大人になったらきっとむかえにくるからね」
 うさぎが悲しそうな顔で言う。
「ううん。大丈夫」
 私は威嚇のつもりで、思い切り笑って見せた。



読んで下さってありがとうございます。思考のかけらが少しでも何かの役に立ったなら幸いです。