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あの頃のクズ達に捧ぐ

 どうしてこういうライブハウスのトイレは、みんな壁が真っ赤なんだろう、と、どうでもいいことを考えてから立ち上がり、便器の水を流した。その赤い個室にはヤニで黄ばんだステッカーが所狭しと貼られていて、どう考えても汚いのだけれど、私はそれが案外嫌いではなかった。少し酔いが回った足取りでトイレから出ると、知らないバンドが最後の曲に入る長いMCをしているところで、まだ十代であろう女が最前列でビールをこぼしていた。

 そういう時、客の間に割って入り、モップで床を掃除するのが蒼介の仕事だった。正確に言えば、それも含めた雑用全般とドリンクカウンターでの接客、たまに受付。ぼんやりとステージを眺めている私の前を、蒼介ではない若い男の子がモップを抱えて通り過ぎた。
 何を好き好んで、最低賃金という言葉も存在しないこんな劣悪な環境で働くのだろうと思わなくもなかったけれど、多分あの頃の私たちは想像以上に馬鹿だったし、それ以上に他人を馬鹿だと思っていたし、大体のことには興味がなかった。それは今も変わらない。
 「先輩!」
 懐かしい声に振り向くと、まばらな人影の向こう側に、ラブが立っていた。
 ラブは薄暗いフロアの人混みを器用に縫いながら近づいて来て、何か言葉を発さなければと口を開いた私を、勢いよく抱きしめた。
「ラブ」
 身体の中で長い間張り詰めていた風船のようなものが音も無く割れ、力が抜けていくようだった。言葉が続かず、私はただラブの体温に身を任せた。歳のせいか幾分か健康的な肉付きになっているようだったが、タトゥーの入った細い手足は昔のままだった。

 取材の翌日、ルイの記事を書き上げた私は、突然思い立ったように連絡先からラブの名前を探し出した。もう随分前から、そうする事が決まっていたかのように。電話番号もメールアドレスも変わっているかもしれない。近況を探ろうにも、ラブの本名すら知らないのだ。この電話が通じなければ、もう一生会う事は無いだろう。そう、始めから半ば諦めながら聞いていた呼び出し音は不意に途切れ、拍子抜けするほど呆気なくラブは電話に出た。そして、二つ返事で『Parade』での待ち合わせを快諾してくれたのだった。
「びっくりしたよ、急に連絡してきて」
 ラブは私の肩を持ち、自分の身体からゆっくりと離した。
「生きてた。よかった」
「え、俺?生きてる生きてる!」
 七年ぶりに見たその顔は、相変わらず無精髭を生やしてはいるが、鋭かった目元には笑うと穏やかな笑い皺が入るようになっていた。
「まあちょっと色々聞きたいけど、とりあえず飲もうぜ」
 ラブはそう言ってドリンクカウンターへ向かう。ステージでは次のバンドが忙しなくセッティングを始めている。フロアのあちらこちらでは、私より十歳近く歳下であろう女の子達が自分の好きなバンドの登場を落ち着かない様子で待っている。
 ラブがビールのプラスチックカップを掲げて戻ってきた。
「じゃ、まあ、乾杯!」
「乾杯」
 ラブが来る前に既にビールを二杯飲んでいた私は、小さく一口だけ泡を啜った。
「先輩こそ、生きてた?」
「うんまあ、なんとか」
「なんか、ちゃんとしてるじゃん」
「ちゃんとって言うか、そりゃ昔よりは」
 昔よりは。私は昔より、どうなったのだろう。
「普通に働いてんの?」
「うん、一応。ラブは?仕事」
「俺はまあなんも変わんないっすよ、見りゃわかるっしょー」
 ラブはいちいち大袈裟におどけて見せる。
 受付こそ知らない顔ではあったが、『Parade』には馴染みのスタッフがまだ数人残っていた。ラブは、今でもたまに『Parade』に顔を出しているらしく、知った顔を見つけては適当に挨拶を交わしている。
 「あれ、ラブさん久しぶりじゃないっすか!」
 突然、ラブの顔を覗き込む男の子がいた。
「お、正人」
「今日なんか観に来たんすか?」
「いやちょっと友達と約束しててさ。あ、こいつ、正人。昔ビリーとバンドやってたんだよ。こちら由梨ちゃん。先輩って呼んでね」
 そう言って、ラブはお互いの事を紹介してくれた。
「初めまして、正人です。ラブさんの先輩なんすか?」
「いや、同い歳なんだけどね。由梨です」
 私達はもう一度、三人でプラスチックのカップを合わせた。
「ビリー知ってるんすか?」
「うん。昔よくここで飲んでたよ」
「へーマジすか。まあ、俺もちょっとしか一緒にやれなかったんすけど」
「そうなんだ。私、かなり久々に来たから、みんながどうしてるのかとか何にも知らなくて。ラブともほんと何年ぶりかって感じで」
「ほんとだよ、もっと連絡してきてよ」
 ラブがふて腐れたような表情をする。ステージのサウンドチェックの音量が少しずつ上がっていく。
「ラブさんはよくいますもんね」
「いねーよ。人のこと暇人みたいに言うな」
「みんなどうしてるんだろうね」
 ”みんな”というのが誰の事を指しているのか、自分でも良く分からずに私はそう呟いた。チヒロや、佐々木や、この場所で出会った名前すら覚えていない人々。いつ消息が途絶えても不思議では無いような人種の人達ばかりだった。
「な。懐かしいなあ、ビリー。元気してる?」
「あ、ビリー、あいつ、死んだんすよ」
「え?」
 私とラブの声が揃った。それと同時にバンドの演奏が始まり、私達の声はエレキギターの轟音に掻き消されてしまった。


読んで下さってありがとうございます。思考のかけらが少しでも何かの役に立ったなら幸いです。